2019年8月7日水曜日

おカネに振り回されること




例えば子供が描いて見せてくれた絵を「そんなことより」と矮小化すること、おカネの問題を生産者や消費者に転嫁すること、おカネのシステムの欠陥を「全て稼ぐ能力・努力(商品価値=賃金)の問題だ」と片付けること。そういったことの何が「現実」「常識」なのか私は甚だ疑問です。

購買力問題とその解決を話せば今度は「周りが」と言い出す。なぜ恐れる必要があるのでしょうか。なぜ周囲を恐れなければならない状況に疑問を持たないのでしょうか。なぜその恐れを他者にも強要するのでしょうか。

そんな恐怖と妄執に曇った「将来」や「心配」などより、素直な気持ちで描いて見せてくれた絵のほうがよほど素晴らしいに決まっています。少なくとも無関係な尺度を持ち出して「そんなことより」と頭ごなしに評価する粗暴な振る舞いよりは平和的かつ建設的な試みでしょう。絵を描く喜びだとか願いだとかを伝えようとしたものだったはずが、「お前は卑小だ」「お前のしたことは『そんなこと』だ」というメッセージを受け取って、次にどんな行動を選ぶかくらい想像できますよね。

私の両親なんかはまさに好きなことを話せば「そんなことより」と毎度のように言っていましたが、今では私の好物を間違えて平然としています。ボケよりは無関心と見下しの結果なのだと思います。私が「将来」「心配」とやらに適合するかどうかが彼らにとっての私という人間の大部分でしたから。私は両親にかける言葉がもはやありません。何千何万と試行錯誤して訴えたにも関わらず、彼らが全て否定して不和を受け入れてしまったからです。

毎回のように言っていますが、足りないのは供給力じゃなくて購買力です。口を開けば供給力のことばかり言う人が多いです。デフレや技術的失業、無条件給付の意味を理解出来ないのでしょうか。だから絵を描いて見せてくれた子供に言うのでしょうか、「そんなことより」お前の商品価値を高めないと苦労するぞと。

問題は供給力じゃなくて購買力にあります。デフレがあり技術的失業がある中、「商品価値(賃金)が(購買力の)全て」という発想が現実に合ってないと言いたいわけです。現実に合ってないからおカネに振り回されるだけ振り回されて何の解決も見ないのです。机上の空論のために慰み者として消費され、萎縮し、歪められる感性がもったないないと思います。