2021年2月1日月曜日

市場には無条件の購買力も必要

おカネの流れは生産段階で2つに大別されます。一方は労賃ですがもう一方は設備投資です。技術的失業は自動化と共に労賃へおカネが流れなくなることです。そうすると現行システムで消費者が購買力を得る手段が無くなり、市場が機能不全を起こします。

ですから消費者に購買力を流すために生産段階を迂回してバイパスを設ける必要があります。生産段階を経由すると市場原理が働いて消費者におカネが行きませんから、これを迂回するわけです。このバイパスが国民配当(ベーシックインカム)です。

市場原理を「市場価値による人命の選別」と解釈してそれに縛られるのは、視野狭窄で本末転倒しています。貨幣についても同様で、「全てその人の市場価値に対する報酬」という解釈のままでは経済が止まるだけです。市場価値の低い人間のせいにしても無駄です。誰もがそうして排除されるからです。今誰か苦しんでいたり死にゆく人を価値がないと見下しているのだとしたら、それは自分の未来かもしれません。

市場は「社会が持つ生産力の効率分配」貨幣は「社会が持つ生産力に対する単なる注文権」というようにシンプルに捉え直した方がいい。富は何か特定の集団のものという考えは部分的にでもいいから可能な限り捨てていったほうがいいです。収入は労賃限定とか意味不明な縛りは不要です。

そもそも資源を所有していると主張することにどれほどの根拠があるのか。一体自分個人がその生産活動の何パーセントに対して純粋に寄与していると言えるのか。言葉にしろ技術にしろ自然の自動的作用にしろ、自分じゃない誰かが考えたり元からあるものを使ってやることがどれだけその個人の偉さになるというのか。自分はほとんど巨人の肩に乗っているだけだから何も偉くないと認識することこそ社会人として最重要レベルの資質ではないのか。

現行の社会システムがいかに強力な拘束力で生活を縛っていようが、現行システムを前提としてこれを絶対視する理由にはなりませんし、そうするべきでもありません。現行システムを絶対の前提として思考を出発させることは積極的に否定されるべきだと思います。

現行システムの強制力を何か自身を正当化する権威のように捉える考えも多いですがこれも否定します。これを背景に繰り出される「誰のおかげで生活できると思ってる」は傲慢の極みだからです。先人の知恵や自然の恵みに感謝すらしない、我に執着したこのような態度は殺人に発展しかねないと私は思います。

実際、子供を虐待死させる親はこのようなことを言うようです。見せかけの自由による選択を繰り返して「適応」していった結果、このような現行システムの構造を「正義」とか「自然の摂理」まで拡大解釈したのではないか。

障害者施設に乗り込んで殺人を行った人物の思想にもそのような側面があったのではないか。あれ相模原事件というんですね。私の脳がポンコツだったせいでもっと殺害人数が少ないものと思ってましたが19人ですか。改めて確認して驚きました。私はこの殺人者が特殊な人間だとは思いません。このような選別的な思想は腐るほど社会にあるからです。障害者差別に限りません。

例えば生活困窮する人が増えるからと消費増税反対とか消費減税を唱える人に対して「皆がお前ほど低いレベルじゃないから」とか言う人がいる。ここでのレベルは市場価値と読み替えていいと思います。要は当人の市場価値が低いことだけが問題だということでしょう。軽い気持ちなのかもしれませんがそれだけに根が深いことを伺わせます。

私はこのような選別的な思想は現行社会システムの構造と関係しているのではないかと思います。「適応」の過程で現行システムの「市場価値による人命の選別」という側面を強く意識して、これを肯定する人は少なくないと考えています。

国民配当しましょう。選別とは真逆です。しかも超合理的。やらない理由がない。