2021年12月31日金曜日

罰とルール

自治体報に体罰特集がありましたのでまず紹介します。

 

(以下引用)

体罰などによらない子育てのために

みんなで育児を支える社会に

 

子どもへの体罰は法律で禁止されています

 令和元年6月に児童福祉法等改正法が成立し、親権者などは、児童のしつけの際に、体罰などを加えてはならないことが法定化され、令和2年4月から施行されています。

 

なぜ体罰などはいけないのか

体罰などによる悪循環

 子どもが思ったとおりに行動してくれず、イライラしたときに、「子供のしつけのためだから仕方ない」として、たたいたり、怒鳴るなどの体罰などを行っていませんか。子どもは体罰などをされると、大人への恐怖心から一時的に言うことを聞くかもしれませんが、それは自分で考え行動した姿ではありません。このようなやりとりは根本的な解決にならず、むしろ自分も周りの人に対して同じように振舞ってよい、と子どもが認識するきっかけにもなります。

体罰などが子供に与える影響

 体罰などが子供の成長・発達に悪影響を与えることは科学的にも明らかになっており、このような行為が繰り返されると、その体験がトラウマなど(心的外傷)となって、心身にダメージを引き起こし、その後の子どもの成長・発達に悪影響を与えます。また、子どもが保護者に恐怖心などを抱くと、信頼関係が築きにくくなり、悩みを相談したり、心配事を打ち明けられなくなります。安心できる場であるはずの家庭が、自分の居場所であると感じられなくなり、対人関係のトラブルや非行、犯罪被害など、別の大きな問題に発展してしまう可能性があります。

 

体罰以外の子どもの心を傷つける行為

 体罰は身体的な虐待につながり、さらにエスカレートする可能性がありますが、その他の著しく監護を怠ることや、子どもの前で配偶者への暴力などについても虐待として禁止されています。また、怒鳴りつけたり、子どもの心を傷つける暴言なども子供の健やかな成長・発達に悪影響を与える可能性があります

(中略)

 

児童虐待とは

・身体的虐待

 殴る、蹴る、叩く、やけどを負わせる、家の外に閉め出すなど

・性的虐待

 子どもへの性的行為、性的行為を見せる、ポルノグラフィーの被写体にするなど

・ネグレクト

 乳幼児を家に残して外出する、食事を与えない、ひどく不潔なままにする、自動車の中に放置する、重い病気になっても病院に連れていかないなど

・心理的虐待

 言葉により脅かす、無視する、きょうだい間で差別的な扱いをする、子どもの前で家族に対して暴言や暴力をふるう(DV)など

(以下略)

(引用終わり)


 

 


考え

罰は恐怖反応

体罰は罰の一種で、肉体的苦痛によって相手をコントロールする方法と言えます。体罰によってもたらされる反応は、銃刀を持った相手を前にして逃げたり従ったりするのと同じであり、信頼関係や理解は関係ありません。また、重要な点として罰は自動的な作用とは違う作為的なものです。

罰のシステム

戦争には督戦という、逃亡する味方を殺す罰のシステムがあるそうです。戦争に限らず「他に代わりはいる」などと言って従わせる等、罰のシステムは今の社会、いたるところで猛威を奮っています。「働かざる者食うべからず」もそうですが、現実に適していないため生きづらさの原因になっているのだろうと思います。

労働市場が労働者過剰で、使い捨てても代わりが見つかりやすいのは事実と考えられます。これは技術的失業、低労賃、低売上、土地建物の放棄(権利者不明状態の増加)など、社会の諸々の情報から自分なりに判断しています。原因の一つは技術的失業への無策と考えています。

罰のシステムがもたらすもの

罰のシステムは何をもたらすのか。例えば山岳ベース事件は、ある社会で体罰によって複数人が殺された事件です。そこではリーダー格の機嫌を損ねれば体罰(死刑)を受けるという暗黙のルールがあり、その状況を単に指摘することも禁忌だったそうです。この閉鎖的な社会では、被害者の死をジコセキニンとして片付けるために「敗北死」という言葉も発明されたそうです。

また、幼児が親に虐待で殺されたある事件では、親が「誰のおかげで生活できていると思っている」などと言いながら子供に体罰を加えていたそうです。その結果子供は死にました。きっと大変苦しくて怖かっただろうと思います。

客観的に正しい・間違っているではなくて、従うか逆らうかだけで決まるのが罰のシステムと言えます。それが期待した結果をもたらすルールならまだいいですが、そうでないのならそんなルールはどれだけ賞罰で押し通そうと被害が増えるだけです。何のためのルールかをよく考えなければならないと思います。

必要なものは罰より収入などの余裕

家庭問題に取り組む方がこのようなことを言っていました。「親子でもつきっきりでいると自然なこととして疲れてきます。イライラもしてきます。地域で子供の面倒を見て親にリフレッシュの機会を与えてあげられる余裕が以前はありました」

引用にも「みんなで育児を支える社会に」とありますが、このビジョンを実現・維持するためにはBI(国民配当)が必要と考えられます。ちょうどAI(人工知能)などが注目されていることですし、技術的失業への対策を取ったほうがいいと思います。

心の余裕は物質的な充足の上に成り立つもので、物質と精神のトレードオフという人間観は間違いだと思います。現代社会において広く物質的な豊かさが実現しているのは誤解や思い込みではないでしょうか。貧困が改善しているという調査・考察もあるのでしょうか。

私は育った家が廃墟になっていた光景を未だに思い出します。時間が経つにつれ街全体がゴーストタウン化しつつあるように見えました。大企業や都市部は被害が零細や地方より遅れてくるだけで、貧困の影響は避けられないと思います。

罰の中毒性

仕事を選ばなければいい、貧困はジコセキニンなどと言う人達の「正義」は「ルールに従うこと」だけで、それが正しいかまでは気にしていないと思います。つまり単なる日和見主義、あるいは権威主義や事大主義です。「敗北死」も無理を要求し、出来ずに死ねばその人のせいということでしたが、それと似通った精神だと思います。

皆が仕事を選ばなくなったら社会は豊かになるでしょうか。労働市場の有効需要に大きな変化が起きるとは考えにくいです。想定される事態としては、競争や脅迫、重負担などの劣悪な環境によって、心身を壊すペースが早まることはあるかもしれません。

社会のせいにするな、ジコセキニンと言っている割に、いざ自分の態度や行動が問われると社会がそうなっているからしょうがない……日和見主義者は最高です。これまで挙げてきた体罰とか虐待の事例みたいに、自分さえ良ければ良くて、虎の威を借りて威張って鬱憤ばらししたいだけではないでしょうか。罰を与える行為にはドーパミン放出が伴うため「正義」には依存性があるのだそうです。

賞罰と正しさは別の話

賞罰に従うことが正しい結果をもたらすとは限らない事例を一つ。某国の権力者が「スズメは稲を食うから害鳥」と駆除を奨励したそうです。人々は恐らく仕事として、報酬を求めて、正義と信じてスズメ狩りをしたのではないでしょうか。ところが、天敵がいなくなった害虫の大繁殖により、大損害と大勢の人の死を招いたそうです。

人間がなぜ無駄に苦しんでいるかといえば、老子の言うところの「作為」のようなものに執着して、自然の反応を学ぼうとしないからではないかと思います。昭和天皇は侍従が雑草を刈ったと聞いてこう言ったそうです。「雑草ということはない。どんな植物でも皆名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない。注意するように」

スズメ狩りの例は作為や人間の一方的な考え方で物事を測り、選別した結果、自然の反応として大打撃を受けたということが言えるのではないでしょうか。「天網恢恢疎にして漏らさず」というのはこういったことではないかと思います。カネになるならないなど目先の利益だけで物事を測るといずれ痛い目を見ると思います。

罰とルールは社会全体の問題

社会には罰のシステムが蔓延っています。このような考えに基づいて、引用の一部をより一般的なものに改変してみました。

「人は罰などを受けると、その社会への恐怖心から一時的に言うことを聞くかもしれませんが、それは自分で考え行動した姿ではありません。このようなやりとりは根本的な解決にならず、むしろ自分も周りの人に対して同じように振舞ってよい、と人が認識するきっかけにもなります。」

「罰は虐待につながり、さらにエスカレートする可能性がありますが、その他誰かの前で別の誰かへの暴力などをすることも虐待です。また、怒鳴りつけたり、人の心を傷つける暴言なども人の健康に悪影響を与える可能性があります」

よく現代日本などは平和と言われますが、私はそう思いません。多くの人が恐怖を日常的に刺激され、技術的失業への無策などによって苦しみに追い立てられているからです。これはスズメ狩りと同じように社会が間違っている事例と考えています。無人工場、無人農園、無人運送、無人店舗、BIが必要なのは明白です。完全無人じゃなくても本質が変わらないことは分かると思います。

それら無人施設の横で大勢の人が、収入が無くて飢える光景なんて誰も望んでいないでしょう。それを「ルールだからしょうがない!ジコセキニン!」と糾弾して問題から目をそらしたところで次は自分です。

「あなたと同等の働きができるロボットが時給1000円から500円でレンタル出来るようになりました。死にたくなかったからあなたは1000円で倍の働きをしてください。その程度の代わりはいくらでも持ってこれますが、同じ労賃でもっと働ける人材は全然足りないですねえ……やってくれますか。なんとありがたい……あなたは素晴らしい人材ですね、社員の鑑です」BIがなければこんなことを死ぬまで繰り返すだけでしょう。いつになったら学ぶのか知りませんが。

この問題があまり表出していないのは、雇用助成などで下駄を履かせているからではないかと。最低労賃もそうですが、健全で公正な市場競争なんてものはとっくに失われています。そこまでしても機械にじわじわ押されつつあることを自覚したほうがいいのではないかと思います。


以上、罰とルールを考えてみました。