ベーシックインカム(国民配当)と生活保護、両者は違うものです。収入が一定あると生活保護はもらえなくなりますが、ベーシックインカムは変わらずもらえます。生活保護は基本的にすべての人が労働するという前提の制度ですが、ベーシックインカムは労働をするもしないも自由という前提の制度です。
ベーシックインカムは生産力と購買力のバランスを保つためのインフラ(基盤)の一つという見方ができます。
技術が発展すると、労働力以上のことが可能になります。生産力を自動化していくと、労働力が貢献する割合は減ります。すると、労賃だけでは分配の不足が起き、恵方巻が売れ残るように、供給過剰が起きます。その購買力の不足分を補い、生産したものを分配可能にするためのルールがベーシックインカムです。
一応断っておくと、購買力の不足と言っても、無限に作ってそれに追いつくよう無限に消費しろということではありません。おカネのことは発注券と考え、基本的にそれに従って生産するのが、過剰生産や廃棄を防ぐ健全な社会につながると思われます。必要になったら、必要なだけ調達できることが理想です。
労賃からベーシックインカムの費用を出しても、生産力と購買力のバランスを実現できないため無意味です。生産力には労働によらない技術的な生産力が入っているからです。その無意味なものをベーシックインカムと呼ぶ人が未だにいて、それを真に受けて「それなら生活保護でいい」という人もいますが、誤った情報に踊らされています。
ベーシックインカムを実現すると景気が良くなります。なぜなら、過剰な生産力を分配することが可能になるからです。
現在、景気が悪く貧困が広がっているのは、生産力が足りないからなどではないと考えられます。もしそうなら、耕作放棄や空き地・空き家、商店街、失業(労賃の低下)などが起きている理由がわかりません。生産力が足りないなら、これらは特別な事情を除いて活用され、値段は上がっていく傾向にあるはずではないでしょうか。本当に人手が足りないのなら、労働力商品の値段が上がるはずですが、そうはなっていません。
購買力が足りないと考えると、辻褄が合いそうです。買えないから貧しい 、売れないから耕作放棄する、維持できる費用がないから空き地・空き家が増える、売れないから商店街が寂れる、売れないから労賃が安い。これらのことが起きる原因は、生産力に比して購買力が不足していることではないでしょうか。生産力は、それを分配する購買力があって初めて意味があるものです。
ベーシックインカムと呼ばれている主張にも、豊かになれるであろうものと貧しくなってしまうであろうものがあります。特に、新規通貨発行を全く伴わない、税収だけで成り立たせようとする緊縮的なものは確実に間違っていると言えます。なぜなら、労賃を切り分けてあれこれと組み替えたところで、自動生産によって拡大する生産力には全く届かないからです。これは単純な算数の問題です。
この労賃を切り取ってあれこれ組み替えるというのがくせ者で、例えば貧困問題一つ取ってみても、子どもの貧困、女性の貧困、ワーキングプアなど、様々な小集団から訴えが上がって、どれかを優遇してはどれかが損をするといった状態になっています。みんながみんな現状をゼロサムのゼロとして認識しているものだから、例えば男と女で言い争ったりという意味のわからないことにもなるのではないでしょうか。
こうした間違った常識の中では、せっかく技術的失業の文脈からベーシックインカムを訴えても、何かパイを奪いに来たやつがまた増えただけだと思われるのも仕方ないでしょう。残念ですが。
労働に縛られ続けられるのは、ベーシックインカムが無いからです。労働をしなくていい状態になったら所得を失ってしまう。「狡兎死して走狗烹らる」状態です。だから、無駄な仕事だろうが内発的な動機が無かろうが、労働をしている必要があります。しかし、労働力も一つの商品である以上、市場に自動化商品が増えてくると、労働力は安売りされるようになります。
失業者の受け皿になる仕事は、いつか生まれるだろうという主張がありますが、その仕事はなんなのでしょう。「人間は働かなければ生きていけない、働くためには仕事が存在していなければならない、だから仕事はきっと生まれるだろう」と、誤った前提から無理やり結論を出している可能性はないでしょうか。このことに限りませんが、誤った前提認識では何を議論しても無駄です。