2017年12月26日火曜日

おカネほしいですか?

本記事の要旨


・おカネほしいですか?
・できます
・求めましょう


おカネほしいですか?

筆者はほしいです。
そしてそれは公的におカネを新しく発行して無条件で全員に配るべきだと考えています。
なぜかというと、そうしなければ経済が崩壊すると考えているからです。

生産性の向上によって機械化と人件費の削減が進むと何が起こるでしょうか。
賃金が低下し、賃金しか所得がない消費者は消費が出来なくなります。
企業は売上が上がらなくなります。
ただ他者との競争に負けることによる死に追われながら、無人化と悪化する低賃金重労働を受け入れるしかありません。

機械がものを作るだけの世界、そこには消費者がいません。
なぜなら消費者が労働の対価としてしかおカネを受け取らなかったからです。
賃金を得るものは正しいから生きており、賃金を得ないものは間違っているから死んだのだという「空気」がそこにはあったでしょう。
ですが消費者が勇気を持っておカネをコントロールし、発行と共に直接皆が受け取るようにしたらどうでしょうか。
皆が富を受け取れます。

そもそもおカネは取引の当事者が作り出したものです。
それを専門に扱う人々が現れ、独占し必要以上に私益を追い求めようとしたことから人間の苦難の一つが始まったと言っても過言ではないと思います。
おカネは消費者がコントロールすべきではないでしょうか。

できます

この問題について取り組んできた人々が一様に指摘するのは、人間が敷いたルール、特にその中でもおカネに関するルールが、誰のものでもない、あるいは皆のものである富を人々が受け取る障害になっているということです。
それは具体的には貸出によっておカネを創造する仕組みであり、おカネの直接給付のない仕組みです。
おカネとは何だという問が昔からありますが、少なくともおカネ自体は商品ではありません。

本来おカネは富を合理的に分配するために発明されたはずです。
それがいつしかおカネ自体と金などの素材を結びつけて、まるでおカネ自体に希少価値があるかのように見せかけたり、貸出と発行を結びつけて不当な利子を取るようになったり、商売や労働によってのみ消費者は所得を得られるといった慣習が形成されるようになっています。
競争の敗者や参加を放棄した者は死を迎えることが当然だという風潮は、奴隷は労働力であって人として扱うのは間違いであるというかつてのそれと大して変わりはないと思います。
ルールの中にしか優劣や勝負は存在しませんが、多くの場合ルール自体の意図的な欠陥は見過ごされます。

おカネのシステムを事実上独占している人々は、利子収入を得るばかりかバブルを膨らましては壊し、そのたびに土地や資産を回収しています。
彼らがダメージを負ったとなれば、その言うとおりに国は税金や国債などの公的資金で救済を行い、その負担は責任の所在がうやむやなまま最終的に消費者へと転嫁されます。
彼らもまたルールを曲げてでも競争の頂点に居座り続けなければならないのだと思いますが、全てを食いつぶした後はどうするのでしょうか。

これを解決するには、この仕組みが持続不可能であることを認識する必要があると考えられます。
つまり貸出と発行が結びつくことによるマネーゲームが経済を今も破壊しており、直接給付がないことで多くの消費者は十分な所得を得られず困窮しているということです。
特に以下の二冊はわかりやすいのでおすすめしています。

のらねこま(2017)『金融緩和の天国と地獄:改訂版: 永久に繰り返すバブルの膨張と崩壊 常識に挑戦する経済論』
のらねこま(2017)『ベーシックインカムの時代が始まる: その理由と財源および導入手順』

求めましょう

今一番おカネを求めなければならないのは消費者だと考えられます。
消費者のすることは、自分に何が必要かを見定めることではないかと考えられます。
労働力の提供だけでは十分な所得を得られない時代になって久しいですが、未だに誤魔化し誤魔化しそのシステムでやってきているという状態だと思います。

機械生産の魅力が労働力の商品としての魅力を上回ることはあれど、それが逆転することはないと考えられます。
例外は、歴史を見る限りでは戦争等で滅茶苦茶になったわずかな期間だけのようです。

筆者作成のおカネの流れの概念図

より少ない資源で大きな富を生み出すことが出来るようになったにも関わらず、現在も労働者数は増加し低賃金重労働が蔓延しています。
賃金によるおカネの流れがやむを得ない事情で滞るならどうしたらいいでしょうか。
それまでとは全く別の発想が必要な時だと考えられます。



文中で未紹介の参考文献
山口薫(2015)『公共貨幣』東洋経済新報社