2019年9月24日火曜日

空気




多くの人にとって「周囲が」「空気が」と自己決定権を自分以外の何者かに委ねることは当たり前のようです。私はこの場合の空気というのは、社会システムによって形成される生活スタイルへの執着ではないかと思います。「働かざる者食うべからず」な現行社会システムでは実際にそのような生活スタイルが形成されるのですが、それが妥当ではないことはもはや語り尽くされているにも関わらず、まるで現状がそうなっていることが正しさの証明であるかのように「ほら、周囲が、空気が」と理由として持ち出されることが、話していると非常に多いです。実際何の説明にもなっていないのですが、そこには罰を恐れる気持ちがあるのかもしれません。

考えてみればわかりますが、Aという主張の妥当性を説明するのに「AだからAは正しい」というのはおかしい話です。「働かざる者食うべからずだから、働かざる者食うべからずは正しいんだ」「今の社会はそうなっているから正しいんだ」「周囲がそうしているから正しいんだ」と、こう書けば何の説明にもなっていないと書いたことも理解できるのではないかと思います。ただの道徳が物理的法則か何かに格上げされているのもおかしいことだと思います。「現行社会システムに逆らったら生きられないからそのとおりに振る舞うんだ」と言ったほうが認識としては進歩しているのではないでしょうか。そう自覚して現行社会システムを肯定できるかは知りませんが、神の御業だの物理法則だのを振りかざすよりはよっぽど救いがあるのではないでしょうか。

かの特攻も反対根拠の明白さにも関わらず、結局は空気で決定されたと言います。空気に逆らえば、もっといえば社会システムのあり方そのものに疑問を呈せば痛い目にあうのだという思い込みではないのでしょうか。人は自分の認識が不適切であるということを受け入れ難いもので、個人を社会システムのあり方に無理やりねじ込むことに熱心な人がいるのはそのせいかもしれません。ほら社会システムの(俺のボスの)言うことを聞かないから痛い目に遭っただろと。しかし、賞罰と物理的自動的な作用を同じだと言っていることには無自覚です。自分の世界観を正しいと証明するために他者の世界観を侵略するのが傲慢ではないなら何だというのでしょうか。

私の家でも常に誰よりも優先して父が中心にいて恐れられていました。「働かざる者食うべからず」な社会システムは、「収入があれば威張っていい」という道徳ですらない珍妙な解釈をもたらす結果になるようです。「誰のおかげで生きていられるのか(俺のおかげでお前が生きている)」は現行社会システムがもたらす最低にして最悪の言葉の一つだと思います。先人の技術遺産や自然への感謝も畏敬もない、ただの傲慢と妄想です。そのような人々にとって、不和を解消しようという訴えは、ただの妄想として処理されるべきもののようです。賃金がなければ生きられないという社会システムの設計思想は、賃金を得るためなら他の様々な問題を無視しても良いという解釈をそこで生きる人々の一部にもたらすようです。あらかじめゴールが決められた迷路を道なりに進むことが、彼らの目には自由な人生に映るのでしょう。