2019年11月17日日曜日

対症療法と根本治療



対症療法と根本治療だったら、根本治療のほうがいいでしょう。対症療法的な行動と、根本治療的な行動なら、やはり根本治療的な行動のほうがいいはずです。要らぬ仕事を作るために解決できる問題を先延ばしにして対症療法で茶を濁すのは、何かおかしいことが起こっているはずです。医療に限らず様々市場において、消費者の立場から何かいびつさを感じ取る人もいらっしゃるのではないかと思います。

例えば向精神薬を用いた薬物療法は対症療法ですが、分子栄養学的な栄養療法は根本治療と言えます。薬の機序を考えてみますと、SSRIなどはたしかセロトニン伝達経路の一部を塞ぐ程度で、セロトニンの合成段階では無関係です。涸れ川に立派な堤防を築くだけなら大きな意味があるとは言えません。ところが身体を作り、神経伝達物質を十分に合成するための栄養指導はごく一部でしか行われていません。私も本で読んで実践しただけで、指導を受けたことはありません。製薬・医療業界が賃金や売上を得るために解決できる問題を無視しているのかどうかはわかりませんが、医者が上から目線で言う患者の根性だとかの問題ではないのは確かでしょう。治療に協力的であってほしいという気持ちは理解できるつもりですが。

そこでの社会復帰・参加の定義もまた、単なる現行システムへの適応になっているのは気にかかるところです。つまり賃金を獲得するのが社会参加だという定義です。そのシステムが不健康の原因の一つでもあるのに。最もそんな定義はないかもしれませんが、体験した身としてそこに向かっていたと思いました。私の担当医は修行とかおっしゃっていましたが、ついに自己判断で治療を中断して現在に至るまで、黙って社会システムに適応しろという以外の解釈はできませんでした。というか当たり前だろみたいな感じで言うのでやっぱり真意はわかりませんでした。ちなみにその後の経過としては分子栄養学の本を読んで自分で始めた栄養療法のほうが効果がありました。



経済でいえば例えば残業規制や最低賃金の設定は対症療法的ですが、ベーシックインカムやデフレ解消は根本治療的と考えられます。なぜ残業規制が敷かれるのかとか、最低賃金が設定されるのかとか考えれば、それは残業が多すぎ、賃金が低すぎて生活や健康に支障をきたす人が多いからでしょう。言い換えれば労働に余裕のある生活ができるだけの値段がつかないということになります。ところが時間や値段を規制したところで市場システムや企業の営利という本質は変わらず、無人化に伴って労働需要は縮小せざるをえません。人手に対して消化業務量が多いので勘違いしている人がいらっしゃるかもしれませんが、根本的には人が足りないのではなくておカネが足りないだけです。根本的に人が足りないなら賃金は上がります。おカネがないから消化体制を整えられられず人も雇えない、おカネがないから業務を過多気味に抱え込むという考え方です。これは恐らく合っていると思っています。生み出される商品価値のうち人的な労働力が寄与する割合は限定的だということを考える必要があります。労働に値段がつかないという流れは機械を打ち壊そうがストをしようが止めようがありません。

ちなみに嫌ならやめる、対等に交渉できるようになるというのは、ベーシックインカムのような拒否権に該当する仕組みがあって初めて出来ます。学び、努力せよ(そうすることで己の商品価値を高めよ)と大量に本や言説が溢れていますが、全体的な状況としては悪化していると言えます。個人の努力や能力不足のせいで片付けていいものとは思えません。というか真っ向から反対します。そもそも買うためのおカネがないのが問題なのに、何が商品価値や生産性なのでしょうか。一体何を以てそれらを測るつもりですか?

それに実際は、大半の生産者が商品価値や生産性の最大化なんて追求していないはずです。大声で言うことではないですが、カネを得るための商品のごまかしなんて呆れるほど横行しています。粗雑な仕事をして過去のブランドを食いつぶすだけの状況にある企業もたくさんあります。そもそもおカネが足りなさすぎてそれを得るために消化しなければならない仕事量が多すぎます。同じことが戦前にもあったのに世界の国々(特に日本国)は何をしているのでしょうか。

労働者、下請け、品質、消費者…カネのために犠牲になっているものがあまりに多すぎます。そんな状況でもデフレの何が問題なのかという人がいるのが私は信じられません。値段なんて気にせずに誰もが満足するいい仕事をしたいとかの欲はないのでしょうか。やめたければやめればいいし、したいことがあるならそれをすべきであって、大事なのはその権利が公共で可能な限り保証されることです。それともそうした仕組みが不足していなければいけない理由でもありますか?

技術はますます進歩して無人工場まで登場しているのに、社会に富を請求する権利はますますなくなって不安になるばかりです。その状態を誰彼はこうだから(例えば努力不足だ能力不足だ)ととっくに陳腐化した物差しで評価してシステムに嵌め込んでみたところで、それに一理あったとしてもやはり限定的で対症療法的なものの見方でしかありません。労働力に満足に値段がつくことはないと状況は示しているわけですが、少なくない人が不満を持ちながらもそれは自分とは関係ないことだと思っているようです。これ、とても不思議な文に見えますね。努力不足だから、商品価値不足だから貧苦に陥るという理屈を現状を鑑みておかしいと思わない人が多いのでしょうか。それとも自分は努力家で商品価値があるからなんだかんだ心配ないと思っているのでしょうか。それとも苦を苦と思っていないのでしょうか。いずれにしろ不満を感じている時点で問題ないとか無関係だと思うのは無理があるのではないでしょうか。いつまで対症療法的な行動にこだわるのでしょうか。