2019年11月27日水曜日

必要なことの多くは先人が考えてくれている



経済はシンプルに捉えれば財を用意して分配するだけです。逆に言えばそれ以上は要素を統合できません。無条件で供給=分配となるわけではない。なぜなら棚に商品が並んでいてもおカネが無ければ何も買えないルールだからです。

財の源泉は自然と技術だと考えます。ただし分配に関しては通貨システムに頼っていて、これは完全に人間社会の決め事だと考えます。神の手はありません。
 
今の私達が考えるべきなのは何を生み出すかとかではなくて、どう財を分け合うかということだと思います。結局の所、その考えが発展していくことによって実際の富の供給も増えていくと考えます。

例えば現在は基礎研究等への投資が足りないと言われます。私の記憶違いでなければ、我が国のノーベル賞受賞者等の超一流の研究者らが口を揃えて訴えていたのが研究投資の重要性です。つまりおカネがないわけです。おカネさえあれば俺がすごい研究を実現してやるという熱意と才能を持った人はそれなりにいると思います。皆さん控えめだったりアピールに興味がなくて、普段はあからさまに言うようなことがないだけでしょう。社会が財を分け合うことで発展するという発想に至らないがために、そうした熱意と才能を潰すことに繋がっているのだとも思います。何でもかんでもそれがどう役に立つのか(おカネになるのか)と問われる研究者の心中は穏やかではないと想像します。もはやそれは取り立てとか脅迫でしょう。

例えば人手不足と言われますが、その実はおカネがないだけです。おカネがないのを「人」のせいにして頑張らなきゃ死ぬぞと鞭打っている、これはおかしい。上司や親を部下や子を死地に叩き込む督戦隊の如き振る舞いに駆り立てるのは、通貨システムの欠陥のせいではないかと思っています。原因が「人」ではなく「カネのシステム」にある以上、いくら督戦隊を気取ったところで問題解決に至ることはありません。技術的失業やデフレを確認することから始めましょう。現状確認のない計画や作戦はありえません。

どう財を分け合うか、その方法を改めて考える必要は実はあまりありません。その方法はすでに先人が考えてくれています。100%マネー(現在では公共貨幣等)然りベーシックインカム然りです。だから私達は状況を確認した上でそれを選べばいいだけです。あれば使い、無ければその時に作ればいいです。先人に感謝しましょう。


2019年11月25日月曜日

縄文時代


小林達雄「縄文文化が日本人の未来を拓く」徳間書店

↑これをちらちら読んでいました。

特に強く興味を惹かれたのが、縄文土器の形や文様は縄文時代の人々の世界観であるという主張です。教科書か何かで見た時は生物的で異様くらいに思っていました。土器に水や食べ物を保存したりしていたなら、土器はそれらの恵みをもたらす自然のシステムに見立てられたのかもしれません。もしかしたら土器のでこぼこな縁は山や草木を表現していたか、ぐねぐね模様は地下を巡るマグマのような、力の流れだったのでしょうか。これらの文様や形状は同じようなパターンが頻出するのだそうです。それこそ縄文時代に共有された世界観だったのではないかというような意見を著者はされています。たしかに、そんな目で見てみると機能美とはまた別の面白さがあります。

当時の労働時間は日に2~3時間だと推測されているそうです。そのくらいで済む余裕がなければ土器にわざわざ機能性を下げるものなんて付けてられないと思うので妥当な推測な気がします。私も2~3時間作業したらいっぱいいっぱいになりますが、それくらいではろくに生活できる気がしません。縄文時代に産まれた方が楽しかったかもしれないと思うのは後ろ向きにすぎるでしょうか。

著者が農耕に対してあまりいい印象を持ってなさそうなのも面白かったです。面白いと言っていいかわかりませんが。農耕社会より狩猟採集社会のほうがビタミン・ミネラル等の栄養状態はよかったと言いますが、そんな気もします。分子栄養学やら糖質制限論者の方々もそんな主張をしていた記憶があります。栄養が炭水化物に偏るとビタミン消費が激しいとかエネルギー産生効率が低いとか、要は農耕は実はあんまりよくない面があるとかの主張です。縄文時代に実に様々な食べ物を旬の季節に食べていたそうですが、毎日パスタとサプリばっかりの私の生活より間違いなく豊かです。縄文時代はこの花が咲いたらあの生き物が旬、みたいな知識もあったようです。旬のウニとか魚とか肉とかを食べていたそうです。

三内丸山のあの大きな6本の柱が一種の日時計だというのは、なるほどと思いました。 実際どうだったかはわかりませんが、まず発想が面白いですし、冬至や夏至の太陽の出入りの方位等と柱同士の位置関係を照らし合わせた理屈も合っているようです。

縄文時代からあるがままの自然を重要視していてそれが後々まで通じている、というのはなんとなく納得できるところがあります。渡部昇一「日本史」に書いてありましたが、律令制を模倣して導入した際に神祇官を上位に設けたのは、オリジナルにはない日本のアレンジだそうです。最近の私は自然に学ぶ大事さを痛感しているので、このような意見や出来事に得心するものを感じます。人為的なものが必ずしも自然に照らして間違いとは限らないかもしれませんが、BIの必要性や債務通貨みたいなものを考えていると、自然を無視して視野狭窄に陥ることの危うさを強く感じます。


2019年11月21日木曜日

雑記



コンビニオーナーとその息子が自殺という文章を見かけました。私のようにいちいちデフレと結びつけて考え込んでしまう人間は、こうした情報が目につかないようにしたほうがいいのかもしれません。今回は見てしまった以上、一応吐き出しておきます。

私は背景として消費者の購買力低下があると考えます。発端としては売上が低下したことだそうですが、それを本部が悪いとかオーナーが悪いとか言って互いの努力やらに原因を求めてもあまり詮無きことではないでしょうか。私達は公で進んでいる購買力の低下をこそ考えたほうがいいのではないでしょうか。

例えばベーシックインカムが実現するなら、収入の底上げは購買力の底上げに直結しますから、売上は当然上がるでしょう。また人の商品価値を問いませんから、生活不安の解消に大きく貢献するものかと思います。無理だ、やってられないと言って自殺したそうですが、やらなくても生きていける仕組みがあれば死ぬこともありませんし、その気になれば再チャレンジも可能ではないでしょうか。これは経済システム的には余剰供給力を機能させるためであって、何も無制限に購買力を上げろというわけではありません。もし供給力が不足しそうなら、その時こそ生産性を問えばいい話です。それこそ頑張っただけ、成果の分だけ報酬を得られるのではないかと考えます。私の憤慨の一つは購買力不足とすべき認識を供給力不足にすり替えようという、特に政府マスコミで行われている試みに対するものです。全く違います。緊縮ありきの詐欺まがいの行いはやめてほしいです。真に受けた人たちが自分を追い詰めています。

家族揃って廃棄商品を食べていたそうですが栄養状態は悪かったはずです。私の記憶にある栄養士の指導でも、コンビニ弁当は勧めるどころかむしろ避けなさいとありました。死なないだけいいだろうと本人たちも本部とやらも考えていたのでしょうが、恐らく足りないです。以前記事で書いたと思いますが、神経伝達物質の合成段階で必要な栄養が不足すれば鬱状態になります。白米だけをいくらかきこんでも駄目なのだそうです。ちなみに鉄不足自体は女性の方が深刻な傾向がありますが、耐性が低いのは男性だそうです。関係あるかはわかりませんが、ここでの自殺者は全て男性です。

何度でも繰り返しますが現状において供給力不足という認識はおかしいです。廃棄弁当など供給力過剰と購買力不足の象徴ではないのでしょうか。しかもそれはカネのために健康に必要な栄養すら省かれたものです。

確かコンビニでも無人レジの店舗を試験する予定があると見かけました。人件費の削減を期待しているのだと思います。品出しもそのうち自動化されるかもしれません。そのたびに賃金で収入を得ている消費者の購買力も少しずつ減っていくのではないかと思います。そうして失業した人は現状の社会システムではまた別の雇用を争わねばなりません。技術的失業が進むと、労働供給は過剰になります。それでも業務消化に必要な人手すら雇えないのが大半の企業です。消費者はどうでしょうか。本格的なデフレ時代の到来を喜んだのも遠い昔、今は100円ショップですらありがたみがなくなってしまったのではないでしょうか。つまり購買力に余裕がないのではないかということです。誰にとってもカネ不足は他人事ではないと思います。

2019年11月19日火曜日

雑記




過剰ノルマなどで追い詰められた郵便局員が自殺という文面をみかけました。少し前だと東京オリンピック関連の事業で現場代理人がノルマなどを苦に自殺していたように記憶しています。確か電通でも社員の自殺がありましたね。積極的に情報を集めなくても目につくものです。生活やその見通しに十分余裕があればそんな環境拒否できますから、そのような状況にはなかったのでしょう。公私、大小、年齢、性別問わず全体的に貧苦に陥っていると判断してもよさそうなのですが、それらを分断して捉えさせようとすることにマスコミなどは熱心ですね。単に全体的にカネがなくて困っているのをワーキングプアとか女性の貧困とか子どもの貧困とか老人の貧困とかブラック企業とか。この方針の究極は「個人の貧困」でしょうか。個々人の事情や資質が貧困をもたらすのだと。毎回のように書いている気がしますが、社会システムの欠陥を問わずに個人の資質を条件だと言う辺り、かなり悪質な方針がとられていると思います。

ある人から定年後に好きな仕事をして充実している人を特集したテレビ番組の話を教えてもらいましたが、私はひねくれているので悪質なプロパガンダとしか思えませんでした。「労働だけが自由への道」みたいな。聞けばやはりというか結構な高給取りで余裕のある方で、話を聞く限り感じのいい人です。高給をとっている理由もなんとなく伺えます。でも社会としてみた時、だから何だとも思います。ひねくれた私には、ガンで苦しんでいる人の健常な組織をちょっとだけ切り取って、はい全体的にも健康ですよーとテレビが言っているようにも思えます。穿ち過ぎだと思いますか?それだけテレビ新聞は非道の片棒を担いでますからね。正直言ってラジオ新聞テレビなどが発信する話題を持ち込まれる事自体が私は嫌いです。

男女だとか大人こどもだとかの切り分けが問題分析に置いて適切だというならそれこそ「分かる」ということにも繋がりますが、デフレという言葉をゴミ箱に捨てた人々の視点で何が分かるのでしょうか。 せいぜい運が悪かったとか商品価値がないから仕方ないとか、それがある意味自然の摂理だとか考えるのではないのでしょうか。先のテレビに取り上げられた人についても、こうなりたいものだなとは思っても実現には少なくともその人と同等の評価を得なければならないのではないのでしょうか。ですから必要なのはベーシックインカムですねと教えてくれた人に言ったらよくわからない反応をされました。私はそれを当人の商品価値など関係なく誰でも実現できるシステムにしませんかと提案しているだけなのですが。テレビなんかに取り上げるまでもなく当たり前になったほうがいいと私は思います。



現行社会システムを全面的に支持する人々は、それを自然の摂理というわりにいたずらに集団を分断したり無理やりくっつけたりしているようにしか見えません。それがひどければひどいほど適応できずに苦しむ人というのが出てきます。私自身、ほとんど無理くり集団に適応しようと試していた時期がありますが無理がありました。いろんな評価軸によって集団というのは動いていて、特に主要な評価軸に適応できない人は多様性だとかなんとか言いながらも事実上弾かれることになります。それが私は子供の頃からずっと気になっていました。私自身に「罰」が向けられなくても、そういったことが周囲で起きているということが評価分断に集団が支配されている証左です。弾かれた人はどうなるのか。自分はそうはならないのだろうかとうっすら思っていました。例えば底に穴の空いた船で、「優秀でいる」ということは単に沈みゆくその船のマストの上の方にしがみつこうとしているだけではないかとも思うのです。必要なのはどう評価されようと穴を塞ぐことではないでしょうか。子供たちにそれまで大人は何をやってたんだと恨まれる生き方はしたくないと思っています。



評価はともかく賞罰は基本的に理不尽だと思います。栄養失調と疲労から居眠りをしていた私に対して怒り出した教師が昔いましたが、その教師が持ち出した「天気も悪いのに」という理屈については今でも真意不明です。恐らくその時感じていた不快さをこの際出来の悪いこいつにいっしょくたにぶつけてやろうと持ち出したのでしょう。親もたびたび理屈の通らない理由で怒鳴りつけてきたものです。宿題をするのを忘れて夜中にやっていたらなぜかえらい剣幕でどつき回されたこともありました。これについては私では理由を想像すら出来ません。兄が父に物差しで叩かれていたことも有りましたが、これは評価と賞罰の根本的な違いを示すようにも見える象徴的な光景です。手に持っていたものこそ普通の竹尺でしたが、言うことを聞くか聞かないかという尺度で叩きまくっていたようなものです。

たまたま賞罰が自然と無理なく噛み合うこともあるでしょうが、そうでないことのほうがよっぽど多いと思います。その自覚がない乱暴な人は親だから上司だからと権威を掲げて相手を操作しようと暴虐を図るのかもしれません。幸いなことに人間は本能的に威張る人間が嫌いなようです。例えばサッカーのフィールドで野球の成績を持ち出して威圧されても迷惑です。集団で唯一の収入者なら虐待も許されるというとそんなことはないですね。犬猫などはおカネの意味はわかりませんが、ご飯をくれたり一緒にいると気持ちいい人はわかります。カラスだって自分に危害を加える人を覚えますし、人に懐きもします。それはコントロールというより自然な反応の積み重ねと捉えたほうがいいかもしれません。そういう性質は人も持っているわけですが、それを無視して結末を求めるのは無理があります。現に私はどんなに脅迫されようと変われませんでした。かわりに自殺を考えたことなら幾度もあります。最初に触れた自殺者も恐らく栄養失調や労働需給の歪みをもたらす社会システムなど鑑みるべき要素があったはずですが、そうした要素に本人含めて誰も目を向けること無く、強い脅迫的な状況に晒され続けたのではないかと思います。 それが当然だという意識も本人や周囲にあったかもしれません。何も自明なことなんてないと思いますが。

「俺がお前を生かしてやっている」は最低だと書いたことがあったと思います。何によって私達は生かされているのか、誰にも具体的に言葉では説明できないことです。何が正しいことだったのか、それは大抵は評価軸によって変わります。例えば3年寝太郎は勤労という視点では不良だったかもしれませんが、観察と機転によって自身だけでなく村の人々をも助けました。もし寝太郎を怠け者で迷惑でしか無いと村が判断して排除してしまったら、村は最悪全滅していたでしょう。今の私ならこの話に物事を測る物差しの扱いの難しさと、自然への観察の重要さを思います。人が勝手に考えた評価軸で正しかろうと間違っていようと、自然はあるがままに結果を返してくるものかと思います。だからこそ認識の不完全さを自覚して、自然に適っているのかの検証を繰り返すことが必要なのではないでしょうか。何か物差しを利用することは避けられないかもしれませんが、自分を一つの物差しに押し込めてしまうこともないと思います。物差しで人を叩くのは色んな意味で間違っています。

そういえば昔色んなことを考えていた人は実は結構な暇人だったらしいというのを見たことがありますが、なんとなくわかる気がします。効率化だの生産性だのというのは現場であくせく追い立てられる人々ではなくて、自然の物事を観察したり表現したり試したりすることに興味があって、「働かざる者食うべからず」みたいな脅迫的な事情から縁遠い、自由に発想する余裕のある人が実現してきたものかと思います。それは誰もが持っている潜在的な素養かとも思いますが、大抵会社などでは鞭を振って追い立てながら失敗をするな、アイデアも出せなんて無理を要求します。大半の人の関心も仕事の出来とかではなくて鞭を逃れたりずるをすることばかりです。当たり前の反応ですね。そんな環境でいいアイデアなんて出るわけ無いと思います。カネになるかどうかしか問われない仕事なんて頭がおかしくなって当然です。それでアイデアがポコっと出てくれば必死に囲い込んだり排除したりして、時に発案者すら蹴落とすという悲劇も現に起きているわけです。何かが根本から間違っていると思わないものでしょうか。私はここにもカネ不足の弊害があると思っています。そもそもカネが社会を十分流れていたらそんな必死になって囲い込む意味はないのではないでしょうか。貴重だから必死に抱え込む、カネが足りないからカネを溜め込み、カネの成る木(と本人たちは思っている)も独占しようとするのではないでしょうか。モノが足りないならともかく、カネ(権利)が足りないだけです。一体デフレのどこがいいんでしょう。



自殺という文面をみかけて思うままに書いてみただけなのでまとまりがなくなった気もしますが、とりあえずここまでにします。

2019年11月17日日曜日

対症療法と根本治療



対症療法と根本治療だったら、根本治療のほうがいいでしょう。対症療法的な行動と、根本治療的な行動なら、やはり根本治療的な行動のほうがいいはずです。要らぬ仕事を作るために解決できる問題を先延ばしにして対症療法で茶を濁すのは、何かおかしいことが起こっているはずです。医療に限らず様々市場において、消費者の立場から何かいびつさを感じ取る人もいらっしゃるのではないかと思います。

例えば向精神薬を用いた薬物療法は対症療法ですが、分子栄養学的な栄養療法は根本治療と言えます。薬の機序を考えてみますと、SSRIなどはたしかセロトニン伝達経路の一部を塞ぐ程度で、セロトニンの合成段階では無関係です。涸れ川に立派な堤防を築くだけなら大きな意味があるとは言えません。ところが身体を作り、神経伝達物質を十分に合成するための栄養指導はごく一部でしか行われていません。私も本で読んで実践しただけで、指導を受けたことはありません。製薬・医療業界が賃金や売上を得るために解決できる問題を無視しているのかどうかはわかりませんが、医者が上から目線で言う患者の根性だとかの問題ではないのは確かでしょう。治療に協力的であってほしいという気持ちは理解できるつもりですが。

そこでの社会復帰・参加の定義もまた、単なる現行システムへの適応になっているのは気にかかるところです。つまり賃金を獲得するのが社会参加だという定義です。そのシステムが不健康の原因の一つでもあるのに。最もそんな定義はないかもしれませんが、体験した身としてそこに向かっていたと思いました。私の担当医は修行とかおっしゃっていましたが、ついに自己判断で治療を中断して現在に至るまで、黙って社会システムに適応しろという以外の解釈はできませんでした。というか当たり前だろみたいな感じで言うのでやっぱり真意はわかりませんでした。ちなみにその後の経過としては分子栄養学の本を読んで自分で始めた栄養療法のほうが効果がありました。



経済でいえば例えば残業規制や最低賃金の設定は対症療法的ですが、ベーシックインカムやデフレ解消は根本治療的と考えられます。なぜ残業規制が敷かれるのかとか、最低賃金が設定されるのかとか考えれば、それは残業が多すぎ、賃金が低すぎて生活や健康に支障をきたす人が多いからでしょう。言い換えれば労働に余裕のある生活ができるだけの値段がつかないということになります。ところが時間や値段を規制したところで市場システムや企業の営利という本質は変わらず、無人化に伴って労働需要は縮小せざるをえません。人手に対して消化業務量が多いので勘違いしている人がいらっしゃるかもしれませんが、根本的には人が足りないのではなくておカネが足りないだけです。根本的に人が足りないなら賃金は上がります。おカネがないから消化体制を整えられられず人も雇えない、おカネがないから業務を過多気味に抱え込むという考え方です。これは恐らく合っていると思っています。生み出される商品価値のうち人的な労働力が寄与する割合は限定的だということを考える必要があります。労働に値段がつかないという流れは機械を打ち壊そうがストをしようが止めようがありません。

ちなみに嫌ならやめる、対等に交渉できるようになるというのは、ベーシックインカムのような拒否権に該当する仕組みがあって初めて出来ます。学び、努力せよ(そうすることで己の商品価値を高めよ)と大量に本や言説が溢れていますが、全体的な状況としては悪化していると言えます。個人の努力や能力不足のせいで片付けていいものとは思えません。というか真っ向から反対します。そもそも買うためのおカネがないのが問題なのに、何が商品価値や生産性なのでしょうか。一体何を以てそれらを測るつもりですか?

それに実際は、大半の生産者が商品価値や生産性の最大化なんて追求していないはずです。大声で言うことではないですが、カネを得るための商品のごまかしなんて呆れるほど横行しています。粗雑な仕事をして過去のブランドを食いつぶすだけの状況にある企業もたくさんあります。そもそもおカネが足りなさすぎてそれを得るために消化しなければならない仕事量が多すぎます。同じことが戦前にもあったのに世界の国々(特に日本国)は何をしているのでしょうか。

労働者、下請け、品質、消費者…カネのために犠牲になっているものがあまりに多すぎます。そんな状況でもデフレの何が問題なのかという人がいるのが私は信じられません。値段なんて気にせずに誰もが満足するいい仕事をしたいとかの欲はないのでしょうか。やめたければやめればいいし、したいことがあるならそれをすべきであって、大事なのはその権利が公共で可能な限り保証されることです。それともそうした仕組みが不足していなければいけない理由でもありますか?

技術はますます進歩して無人工場まで登場しているのに、社会に富を請求する権利はますますなくなって不安になるばかりです。その状態を誰彼はこうだから(例えば努力不足だ能力不足だ)ととっくに陳腐化した物差しで評価してシステムに嵌め込んでみたところで、それに一理あったとしてもやはり限定的で対症療法的なものの見方でしかありません。労働力に満足に値段がつくことはないと状況は示しているわけですが、少なくない人が不満を持ちながらもそれは自分とは関係ないことだと思っているようです。これ、とても不思議な文に見えますね。努力不足だから、商品価値不足だから貧苦に陥るという理屈を現状を鑑みておかしいと思わない人が多いのでしょうか。それとも自分は努力家で商品価値があるからなんだかんだ心配ないと思っているのでしょうか。それとも苦を苦と思っていないのでしょうか。いずれにしろ不満を感じている時点で問題ないとか無関係だと思うのは無理があるのではないでしょうか。いつまで対症療法的な行動にこだわるのでしょうか。