2019年11月19日火曜日

雑記




過剰ノルマなどで追い詰められた郵便局員が自殺という文面をみかけました。少し前だと東京オリンピック関連の事業で現場代理人がノルマなどを苦に自殺していたように記憶しています。確か電通でも社員の自殺がありましたね。積極的に情報を集めなくても目につくものです。生活やその見通しに十分余裕があればそんな環境拒否できますから、そのような状況にはなかったのでしょう。公私、大小、年齢、性別問わず全体的に貧苦に陥っていると判断してもよさそうなのですが、それらを分断して捉えさせようとすることにマスコミなどは熱心ですね。単に全体的にカネがなくて困っているのをワーキングプアとか女性の貧困とか子どもの貧困とか老人の貧困とかブラック企業とか。この方針の究極は「個人の貧困」でしょうか。個々人の事情や資質が貧困をもたらすのだと。毎回のように書いている気がしますが、社会システムの欠陥を問わずに個人の資質を条件だと言う辺り、かなり悪質な方針がとられていると思います。

ある人から定年後に好きな仕事をして充実している人を特集したテレビ番組の話を教えてもらいましたが、私はひねくれているので悪質なプロパガンダとしか思えませんでした。「労働だけが自由への道」みたいな。聞けばやはりというか結構な高給取りで余裕のある方で、話を聞く限り感じのいい人です。高給をとっている理由もなんとなく伺えます。でも社会としてみた時、だから何だとも思います。ひねくれた私には、ガンで苦しんでいる人の健常な組織をちょっとだけ切り取って、はい全体的にも健康ですよーとテレビが言っているようにも思えます。穿ち過ぎだと思いますか?それだけテレビ新聞は非道の片棒を担いでますからね。正直言ってラジオ新聞テレビなどが発信する話題を持ち込まれる事自体が私は嫌いです。

男女だとか大人こどもだとかの切り分けが問題分析に置いて適切だというならそれこそ「分かる」ということにも繋がりますが、デフレという言葉をゴミ箱に捨てた人々の視点で何が分かるのでしょうか。 せいぜい運が悪かったとか商品価値がないから仕方ないとか、それがある意味自然の摂理だとか考えるのではないのでしょうか。先のテレビに取り上げられた人についても、こうなりたいものだなとは思っても実現には少なくともその人と同等の評価を得なければならないのではないのでしょうか。ですから必要なのはベーシックインカムですねと教えてくれた人に言ったらよくわからない反応をされました。私はそれを当人の商品価値など関係なく誰でも実現できるシステムにしませんかと提案しているだけなのですが。テレビなんかに取り上げるまでもなく当たり前になったほうがいいと私は思います。



現行社会システムを全面的に支持する人々は、それを自然の摂理というわりにいたずらに集団を分断したり無理やりくっつけたりしているようにしか見えません。それがひどければひどいほど適応できずに苦しむ人というのが出てきます。私自身、ほとんど無理くり集団に適応しようと試していた時期がありますが無理がありました。いろんな評価軸によって集団というのは動いていて、特に主要な評価軸に適応できない人は多様性だとかなんとか言いながらも事実上弾かれることになります。それが私は子供の頃からずっと気になっていました。私自身に「罰」が向けられなくても、そういったことが周囲で起きているということが評価分断に集団が支配されている証左です。弾かれた人はどうなるのか。自分はそうはならないのだろうかとうっすら思っていました。例えば底に穴の空いた船で、「優秀でいる」ということは単に沈みゆくその船のマストの上の方にしがみつこうとしているだけではないかとも思うのです。必要なのはどう評価されようと穴を塞ぐことではないでしょうか。子供たちにそれまで大人は何をやってたんだと恨まれる生き方はしたくないと思っています。



評価はともかく賞罰は基本的に理不尽だと思います。栄養失調と疲労から居眠りをしていた私に対して怒り出した教師が昔いましたが、その教師が持ち出した「天気も悪いのに」という理屈については今でも真意不明です。恐らくその時感じていた不快さをこの際出来の悪いこいつにいっしょくたにぶつけてやろうと持ち出したのでしょう。親もたびたび理屈の通らない理由で怒鳴りつけてきたものです。宿題をするのを忘れて夜中にやっていたらなぜかえらい剣幕でどつき回されたこともありました。これについては私では理由を想像すら出来ません。兄が父に物差しで叩かれていたことも有りましたが、これは評価と賞罰の根本的な違いを示すようにも見える象徴的な光景です。手に持っていたものこそ普通の竹尺でしたが、言うことを聞くか聞かないかという尺度で叩きまくっていたようなものです。

たまたま賞罰が自然と無理なく噛み合うこともあるでしょうが、そうでないことのほうがよっぽど多いと思います。その自覚がない乱暴な人は親だから上司だからと権威を掲げて相手を操作しようと暴虐を図るのかもしれません。幸いなことに人間は本能的に威張る人間が嫌いなようです。例えばサッカーのフィールドで野球の成績を持ち出して威圧されても迷惑です。集団で唯一の収入者なら虐待も許されるというとそんなことはないですね。犬猫などはおカネの意味はわかりませんが、ご飯をくれたり一緒にいると気持ちいい人はわかります。カラスだって自分に危害を加える人を覚えますし、人に懐きもします。それはコントロールというより自然な反応の積み重ねと捉えたほうがいいかもしれません。そういう性質は人も持っているわけですが、それを無視して結末を求めるのは無理があります。現に私はどんなに脅迫されようと変われませんでした。かわりに自殺を考えたことなら幾度もあります。最初に触れた自殺者も恐らく栄養失調や労働需給の歪みをもたらす社会システムなど鑑みるべき要素があったはずですが、そうした要素に本人含めて誰も目を向けること無く、強い脅迫的な状況に晒され続けたのではないかと思います。 それが当然だという意識も本人や周囲にあったかもしれません。何も自明なことなんてないと思いますが。

「俺がお前を生かしてやっている」は最低だと書いたことがあったと思います。何によって私達は生かされているのか、誰にも具体的に言葉では説明できないことです。何が正しいことだったのか、それは大抵は評価軸によって変わります。例えば3年寝太郎は勤労という視点では不良だったかもしれませんが、観察と機転によって自身だけでなく村の人々をも助けました。もし寝太郎を怠け者で迷惑でしか無いと村が判断して排除してしまったら、村は最悪全滅していたでしょう。今の私ならこの話に物事を測る物差しの扱いの難しさと、自然への観察の重要さを思います。人が勝手に考えた評価軸で正しかろうと間違っていようと、自然はあるがままに結果を返してくるものかと思います。だからこそ認識の不完全さを自覚して、自然に適っているのかの検証を繰り返すことが必要なのではないでしょうか。何か物差しを利用することは避けられないかもしれませんが、自分を一つの物差しに押し込めてしまうこともないと思います。物差しで人を叩くのは色んな意味で間違っています。

そういえば昔色んなことを考えていた人は実は結構な暇人だったらしいというのを見たことがありますが、なんとなくわかる気がします。効率化だの生産性だのというのは現場であくせく追い立てられる人々ではなくて、自然の物事を観察したり表現したり試したりすることに興味があって、「働かざる者食うべからず」みたいな脅迫的な事情から縁遠い、自由に発想する余裕のある人が実現してきたものかと思います。それは誰もが持っている潜在的な素養かとも思いますが、大抵会社などでは鞭を振って追い立てながら失敗をするな、アイデアも出せなんて無理を要求します。大半の人の関心も仕事の出来とかではなくて鞭を逃れたりずるをすることばかりです。当たり前の反応ですね。そんな環境でいいアイデアなんて出るわけ無いと思います。カネになるかどうかしか問われない仕事なんて頭がおかしくなって当然です。それでアイデアがポコっと出てくれば必死に囲い込んだり排除したりして、時に発案者すら蹴落とすという悲劇も現に起きているわけです。何かが根本から間違っていると思わないものでしょうか。私はここにもカネ不足の弊害があると思っています。そもそもカネが社会を十分流れていたらそんな必死になって囲い込む意味はないのではないでしょうか。貴重だから必死に抱え込む、カネが足りないからカネを溜め込み、カネの成る木(と本人たちは思っている)も独占しようとするのではないでしょうか。モノが足りないならともかく、カネ(権利)が足りないだけです。一体デフレのどこがいいんでしょう。



自殺という文面をみかけて思うままに書いてみただけなのでまとまりがなくなった気もしますが、とりあえずここまでにします。