2021年1月22日金曜日

生命の市場価値

自然を相手にしていた時はどうだったかわかりませんが、今社会の奥で一生を過ごすような人は、市場価値があるから生きることを許されているところがあります。何に許されているかといえば社会システムとそれを支持している自分自身です。全ての所作が自らの市場価値に通じていないといけない、そういう物差しにわざわざ自分達を縛り付けているのが今の人間模様だと思います。

子供達は絵を描けば勉強しろと言われ、運動をすればテストの成績が下がったと言われ、本心からの言葉を投げかければ黙るように要求される。やりたいことについてどれだけマネタイズが難しいか「現実」を力説される。小さな芽吹きのように、ただ表現したかっただけ、ただ出来たことが嬉しかっただけ、ただ共有したかっただけ、ただ夢を描いてみただけなのに、とんでもないと踏み荒らされる。その時の落下するような感覚は私も知っています。

表現したり感じたり動いたり話したり、それは後回し、何より優先すべきは自らの市場価値だということを「教育」する必要があると不安な大人は考えるのでしょう。夢はそれからだと。一体0コンマ何%の人々がそんな要求と夢を追えるのかわかりませんが、見せかけの自由の結果、そういう結論に行き着くわけです。社会は人為的なシステムですが、それを自然のシステムと同一視しているのではないかと思います。

人間として自然な欲求を抑圧して事に当たらなければならない、まさしく緊急事態です。でも自然災害などではなくて、社会システムという人為的プログラムのバグに振り回されているだけです。おカネの問題ですから。ちなみにおカネというのは請求権です。他の人は知りませんが私はそう解釈しています。おカネが必要なくなる時は権利という概念が不要になった時でしょう。それがどんな未来かはわかりません。

社会という視点でかなり革新的なアニメだった「けものフレンズ」も、皆に富を請求する権利が無条件に付与されていると見なすこともできると思います。自動生産された(確かそんな設定だったような気がします)食糧をボスと呼ばれる機械獣からもらっているのを見ればわかりますが、そのおかげで誰もが市場価値に左右されずに健康に生きることが出来ていたわけです。あの作品では途中で古い硬貨が出てきますが、口ぶりから推測するに権利という本質的な意味は失われていると考えられます。硬貨を嬉しそうに拾い上げたのがツチノコのキャラというのも面白い構図だと思います。そこにかつて見いだされていたであろう権利というのは、目に見えない、耳にも聞こえない、触れもしない、匂いもない、そういうものです。そこにあった貨幣としての本質は登場キャラクター達の社会に無言の約束として溶け込んだのかもしれないと思います。

 

現行社会システムは市場価値という物差しで生命や環境を選別し、極めて破壊的に振る舞います。理由は国民配当(ベーシックインカム)が無いからです。購買力は労賃しかない一方で、供給力は労働力の他に自動化設備がある。生産性が向上する度に低労賃、無収入者が増える。要は「全部無人で作れるのに誰も請求できない」状況がありえるわけです。現状はと言うと工場も無人化、コンビニも無人化、運転も無人化の流れ。こぼれ落ちた人間の救済は、あいも変わらず現役の人々の労賃からの負担。人間に対しては容易に無能とか自己責任といった罵倒を叩きつける割に、これを欠陥システムとは言わないのですかね。現行システムありきで考える人が多すぎるのではないでしょうか。

国民配当を実装しない限り、施策としては今後も無意味な選別が続くのだろうと思います。例えば男と女は両方揃って一つの生命といっても過言ではないのに、国民配当という合理的でそれこそ男女平等な施策ではなく、どちらかを優遇しろと主張するのは筋がよくないと思います。人間は働かなくていいために働いているはずなのに、自動化した成果を国民配当で分配しないまま失業を恐れ無職を蔑むのはどうしてでしょうか。困っている人を無能、自己責任と切り捨てることが当たり前になっていて、その解釈に至るまでにどんな前提があるのか全く疑問に思わないのでしょうか。

こうした選別はたいてい問題解決に繋がらないし、事態が複雑になっていくばかりだと思います。最初は何か自分達を優遇しろと主張していた(2つ)ものが、別の物差しを追加する(4つ)とかです。これだけで4分割。例えば性差の他にも職、年齢、既婚かどうか、子供がいるかどうか、パートナーのステータス、子供のステータス、いくらでも選別しようという向きは見られます。その採用した数だけ累乗されます。

果たしてこれは問題解決なのですかね。指数関数的に狭まっていく何万分の1の先にだけ幸福は存在するのでしょうか。私は役に立たない物差しをいくら持ち出しても解決には無意味と解釈します。平等や発展を目指すなら国民配当(1つ)の方向性でいいと思います。争う必要もありませんし。万能とまでは言えませんが、大抵のことはこれで解決すると思います。物差しは適切な場面でだけ使うべきです。

以前に養護施設だかが襲撃されて殺人が起きた事件があったと記憶しています。表面的な情報しか見ていませんが、殺人犯はその行いを正義だと信じていたように見えました。市場価値にならない人々はそれ以外の人々の邪魔、存在が無駄でしかないという思考を頭の中で何度も繰り返していたのでしょうか。何がきっかけで自分も歩けなくなったりするかもわからないのに、そうなった自分が惨たらしく殺されることを受け入れられるのか。自分の浅はかな物差しでは予想できないところに他人の素晴らしさがあるとは思わないのか。現行システムありきで考える危険性がここにもあるのではないでしょうか。

将来的には知りませんが、社会や技術への依存、生命維持活動や生殖活動をやめられない以上、社会システムをより自然なかたちに変えていくしか無いと思います。それとも、社会システムありきで市場価値のないものを無駄と切り捨て続けるでしょうか。自分がそうなった時、納得して生命を捨てられるのでしょうか。もしそうなら現行システムへの信仰が深いんだろうと思います。労働教、所有教、自己責任教、市場価値教、そして社会システム。神なき世界になったという言葉をネットで見かけましたが、むしろ色んなカミさまを今も人間は信じているんだなあと私などは思います。