2019年12月15日日曜日

帳幣



帳幣という言葉があるようです。読みは「ちょうへい」かと思います。私がこの言葉を見たのは、スイスのソブリンマネーに関する国民投票に関係した資料を読んでいた時だったと記憶しています。それ以外は見たことがありませんし、辞書にも載っていませんが、大事な視点だと思うので取り上げます。

帳幣とは何でしょうか。紙幣は紙のおカネ、硬貨は硬いモノのおカネです。その法則に従えば、帳幣は帳ですから帳簿のおカネということになるでしょうか。現在の銀行口座のようなおカネは、電子台帳による帳幣と言えるかと思います。帳簿に書かれた数字を硬貨や紙幣などと同等のおカネと呼んでいいのでしょうか。結論から言えばいいと考えています。

そもそもおカネとは何でしょうか。貨幣という言葉は、成り立ちから見ると貝と布を指すそうです。紙幣や硬貨もそのように解釈すると紙と布、硬い貝です。しかしこれらの言葉は物質的な対象をそのまま意味するだけでは勿論ありません。数(単位・尺度)や権利といった情報をも意味します。

硬貨や紙幣にしろ台帳にしろ、請求権の保有や移動といった状態を表現する道具と考えます。10円玉の所有権が移動しようと、帳簿上で10円が移動しようと、通貨システム的には同じ事実です。硬貨や紙幣は所有権の移動によって請求権の保有や移動を表しますし、帳幣は帳簿上で同じことを表すと考えます。どのような形を選ぶかは使い勝手や保安を考慮すると思います。

2019年11月27日水曜日

必要なことの多くは先人が考えてくれている



経済はシンプルに捉えれば財を用意して分配するだけです。逆に言えばそれ以上は要素を統合できません。無条件で供給=分配となるわけではない。なぜなら棚に商品が並んでいてもおカネが無ければ何も買えないルールだからです。

財の源泉は自然と技術だと考えます。ただし分配に関しては通貨システムに頼っていて、これは完全に人間社会の決め事だと考えます。神の手はありません。
 
今の私達が考えるべきなのは何を生み出すかとかではなくて、どう財を分け合うかということだと思います。結局の所、その考えが発展していくことによって実際の富の供給も増えていくと考えます。

例えば現在は基礎研究等への投資が足りないと言われます。私の記憶違いでなければ、我が国のノーベル賞受賞者等の超一流の研究者らが口を揃えて訴えていたのが研究投資の重要性です。つまりおカネがないわけです。おカネさえあれば俺がすごい研究を実現してやるという熱意と才能を持った人はそれなりにいると思います。皆さん控えめだったりアピールに興味がなくて、普段はあからさまに言うようなことがないだけでしょう。社会が財を分け合うことで発展するという発想に至らないがために、そうした熱意と才能を潰すことに繋がっているのだとも思います。何でもかんでもそれがどう役に立つのか(おカネになるのか)と問われる研究者の心中は穏やかではないと想像します。もはやそれは取り立てとか脅迫でしょう。

例えば人手不足と言われますが、その実はおカネがないだけです。おカネがないのを「人」のせいにして頑張らなきゃ死ぬぞと鞭打っている、これはおかしい。上司や親を部下や子を死地に叩き込む督戦隊の如き振る舞いに駆り立てるのは、通貨システムの欠陥のせいではないかと思っています。原因が「人」ではなく「カネのシステム」にある以上、いくら督戦隊を気取ったところで問題解決に至ることはありません。技術的失業やデフレを確認することから始めましょう。現状確認のない計画や作戦はありえません。

どう財を分け合うか、その方法を改めて考える必要は実はあまりありません。その方法はすでに先人が考えてくれています。100%マネー(現在では公共貨幣等)然りベーシックインカム然りです。だから私達は状況を確認した上でそれを選べばいいだけです。あれば使い、無ければその時に作ればいいです。先人に感謝しましょう。


2019年11月25日月曜日

縄文時代


小林達雄「縄文文化が日本人の未来を拓く」徳間書店

↑これをちらちら読んでいました。

特に強く興味を惹かれたのが、縄文土器の形や文様は縄文時代の人々の世界観であるという主張です。教科書か何かで見た時は生物的で異様くらいに思っていました。土器に水や食べ物を保存したりしていたなら、土器はそれらの恵みをもたらす自然のシステムに見立てられたのかもしれません。もしかしたら土器のでこぼこな縁は山や草木を表現していたか、ぐねぐね模様は地下を巡るマグマのような、力の流れだったのでしょうか。これらの文様や形状は同じようなパターンが頻出するのだそうです。それこそ縄文時代に共有された世界観だったのではないかというような意見を著者はされています。たしかに、そんな目で見てみると機能美とはまた別の面白さがあります。

当時の労働時間は日に2~3時間だと推測されているそうです。そのくらいで済む余裕がなければ土器にわざわざ機能性を下げるものなんて付けてられないと思うので妥当な推測な気がします。私も2~3時間作業したらいっぱいいっぱいになりますが、それくらいではろくに生活できる気がしません。縄文時代に産まれた方が楽しかったかもしれないと思うのは後ろ向きにすぎるでしょうか。

著者が農耕に対してあまりいい印象を持ってなさそうなのも面白かったです。面白いと言っていいかわかりませんが。農耕社会より狩猟採集社会のほうがビタミン・ミネラル等の栄養状態はよかったと言いますが、そんな気もします。分子栄養学やら糖質制限論者の方々もそんな主張をしていた記憶があります。栄養が炭水化物に偏るとビタミン消費が激しいとかエネルギー産生効率が低いとか、要は農耕は実はあんまりよくない面があるとかの主張です。縄文時代に実に様々な食べ物を旬の季節に食べていたそうですが、毎日パスタとサプリばっかりの私の生活より間違いなく豊かです。縄文時代はこの花が咲いたらあの生き物が旬、みたいな知識もあったようです。旬のウニとか魚とか肉とかを食べていたそうです。

三内丸山のあの大きな6本の柱が一種の日時計だというのは、なるほどと思いました。 実際どうだったかはわかりませんが、まず発想が面白いですし、冬至や夏至の太陽の出入りの方位等と柱同士の位置関係を照らし合わせた理屈も合っているようです。

縄文時代からあるがままの自然を重要視していてそれが後々まで通じている、というのはなんとなく納得できるところがあります。渡部昇一「日本史」に書いてありましたが、律令制を模倣して導入した際に神祇官を上位に設けたのは、オリジナルにはない日本のアレンジだそうです。最近の私は自然に学ぶ大事さを痛感しているので、このような意見や出来事に得心するものを感じます。人為的なものが必ずしも自然に照らして間違いとは限らないかもしれませんが、BIの必要性や債務通貨みたいなものを考えていると、自然を無視して視野狭窄に陥ることの危うさを強く感じます。


2019年11月21日木曜日

雑記



コンビニオーナーとその息子が自殺という文章を見かけました。私のようにいちいちデフレと結びつけて考え込んでしまう人間は、こうした情報が目につかないようにしたほうがいいのかもしれません。今回は見てしまった以上、一応吐き出しておきます。

私は背景として消費者の購買力低下があると考えます。発端としては売上が低下したことだそうですが、それを本部が悪いとかオーナーが悪いとか言って互いの努力やらに原因を求めてもあまり詮無きことではないでしょうか。私達は公で進んでいる購買力の低下をこそ考えたほうがいいのではないでしょうか。

例えばベーシックインカムが実現するなら、収入の底上げは購買力の底上げに直結しますから、売上は当然上がるでしょう。また人の商品価値を問いませんから、生活不安の解消に大きく貢献するものかと思います。無理だ、やってられないと言って自殺したそうですが、やらなくても生きていける仕組みがあれば死ぬこともありませんし、その気になれば再チャレンジも可能ではないでしょうか。これは経済システム的には余剰供給力を機能させるためであって、何も無制限に購買力を上げろというわけではありません。もし供給力が不足しそうなら、その時こそ生産性を問えばいい話です。それこそ頑張っただけ、成果の分だけ報酬を得られるのではないかと考えます。私の憤慨の一つは購買力不足とすべき認識を供給力不足にすり替えようという、特に政府マスコミで行われている試みに対するものです。全く違います。緊縮ありきの詐欺まがいの行いはやめてほしいです。真に受けた人たちが自分を追い詰めています。

家族揃って廃棄商品を食べていたそうですが栄養状態は悪かったはずです。私の記憶にある栄養士の指導でも、コンビニ弁当は勧めるどころかむしろ避けなさいとありました。死なないだけいいだろうと本人たちも本部とやらも考えていたのでしょうが、恐らく足りないです。以前記事で書いたと思いますが、神経伝達物質の合成段階で必要な栄養が不足すれば鬱状態になります。白米だけをいくらかきこんでも駄目なのだそうです。ちなみに鉄不足自体は女性の方が深刻な傾向がありますが、耐性が低いのは男性だそうです。関係あるかはわかりませんが、ここでの自殺者は全て男性です。

何度でも繰り返しますが現状において供給力不足という認識はおかしいです。廃棄弁当など供給力過剰と購買力不足の象徴ではないのでしょうか。しかもそれはカネのために健康に必要な栄養すら省かれたものです。

確かコンビニでも無人レジの店舗を試験する予定があると見かけました。人件費の削減を期待しているのだと思います。品出しもそのうち自動化されるかもしれません。そのたびに賃金で収入を得ている消費者の購買力も少しずつ減っていくのではないかと思います。そうして失業した人は現状の社会システムではまた別の雇用を争わねばなりません。技術的失業が進むと、労働供給は過剰になります。それでも業務消化に必要な人手すら雇えないのが大半の企業です。消費者はどうでしょうか。本格的なデフレ時代の到来を喜んだのも遠い昔、今は100円ショップですらありがたみがなくなってしまったのではないでしょうか。つまり購買力に余裕がないのではないかということです。誰にとってもカネ不足は他人事ではないと思います。

2019年11月19日火曜日

雑記




過剰ノルマなどで追い詰められた郵便局員が自殺という文面をみかけました。少し前だと東京オリンピック関連の事業で現場代理人がノルマなどを苦に自殺していたように記憶しています。確か電通でも社員の自殺がありましたね。積極的に情報を集めなくても目につくものです。生活やその見通しに十分余裕があればそんな環境拒否できますから、そのような状況にはなかったのでしょう。公私、大小、年齢、性別問わず全体的に貧苦に陥っていると判断してもよさそうなのですが、それらを分断して捉えさせようとすることにマスコミなどは熱心ですね。単に全体的にカネがなくて困っているのをワーキングプアとか女性の貧困とか子どもの貧困とか老人の貧困とかブラック企業とか。この方針の究極は「個人の貧困」でしょうか。個々人の事情や資質が貧困をもたらすのだと。毎回のように書いている気がしますが、社会システムの欠陥を問わずに個人の資質を条件だと言う辺り、かなり悪質な方針がとられていると思います。

ある人から定年後に好きな仕事をして充実している人を特集したテレビ番組の話を教えてもらいましたが、私はひねくれているので悪質なプロパガンダとしか思えませんでした。「労働だけが自由への道」みたいな。聞けばやはりというか結構な高給取りで余裕のある方で、話を聞く限り感じのいい人です。高給をとっている理由もなんとなく伺えます。でも社会としてみた時、だから何だとも思います。ひねくれた私には、ガンで苦しんでいる人の健常な組織をちょっとだけ切り取って、はい全体的にも健康ですよーとテレビが言っているようにも思えます。穿ち過ぎだと思いますか?それだけテレビ新聞は非道の片棒を担いでますからね。正直言ってラジオ新聞テレビなどが発信する話題を持ち込まれる事自体が私は嫌いです。

男女だとか大人こどもだとかの切り分けが問題分析に置いて適切だというならそれこそ「分かる」ということにも繋がりますが、デフレという言葉をゴミ箱に捨てた人々の視点で何が分かるのでしょうか。 せいぜい運が悪かったとか商品価値がないから仕方ないとか、それがある意味自然の摂理だとか考えるのではないのでしょうか。先のテレビに取り上げられた人についても、こうなりたいものだなとは思っても実現には少なくともその人と同等の評価を得なければならないのではないのでしょうか。ですから必要なのはベーシックインカムですねと教えてくれた人に言ったらよくわからない反応をされました。私はそれを当人の商品価値など関係なく誰でも実現できるシステムにしませんかと提案しているだけなのですが。テレビなんかに取り上げるまでもなく当たり前になったほうがいいと私は思います。



現行社会システムを全面的に支持する人々は、それを自然の摂理というわりにいたずらに集団を分断したり無理やりくっつけたりしているようにしか見えません。それがひどければひどいほど適応できずに苦しむ人というのが出てきます。私自身、ほとんど無理くり集団に適応しようと試していた時期がありますが無理がありました。いろんな評価軸によって集団というのは動いていて、特に主要な評価軸に適応できない人は多様性だとかなんとか言いながらも事実上弾かれることになります。それが私は子供の頃からずっと気になっていました。私自身に「罰」が向けられなくても、そういったことが周囲で起きているということが評価分断に集団が支配されている証左です。弾かれた人はどうなるのか。自分はそうはならないのだろうかとうっすら思っていました。例えば底に穴の空いた船で、「優秀でいる」ということは単に沈みゆくその船のマストの上の方にしがみつこうとしているだけではないかとも思うのです。必要なのはどう評価されようと穴を塞ぐことではないでしょうか。子供たちにそれまで大人は何をやってたんだと恨まれる生き方はしたくないと思っています。



評価はともかく賞罰は基本的に理不尽だと思います。栄養失調と疲労から居眠りをしていた私に対して怒り出した教師が昔いましたが、その教師が持ち出した「天気も悪いのに」という理屈については今でも真意不明です。恐らくその時感じていた不快さをこの際出来の悪いこいつにいっしょくたにぶつけてやろうと持ち出したのでしょう。親もたびたび理屈の通らない理由で怒鳴りつけてきたものです。宿題をするのを忘れて夜中にやっていたらなぜかえらい剣幕でどつき回されたこともありました。これについては私では理由を想像すら出来ません。兄が父に物差しで叩かれていたことも有りましたが、これは評価と賞罰の根本的な違いを示すようにも見える象徴的な光景です。手に持っていたものこそ普通の竹尺でしたが、言うことを聞くか聞かないかという尺度で叩きまくっていたようなものです。

たまたま賞罰が自然と無理なく噛み合うこともあるでしょうが、そうでないことのほうがよっぽど多いと思います。その自覚がない乱暴な人は親だから上司だからと権威を掲げて相手を操作しようと暴虐を図るのかもしれません。幸いなことに人間は本能的に威張る人間が嫌いなようです。例えばサッカーのフィールドで野球の成績を持ち出して威圧されても迷惑です。集団で唯一の収入者なら虐待も許されるというとそんなことはないですね。犬猫などはおカネの意味はわかりませんが、ご飯をくれたり一緒にいると気持ちいい人はわかります。カラスだって自分に危害を加える人を覚えますし、人に懐きもします。それはコントロールというより自然な反応の積み重ねと捉えたほうがいいかもしれません。そういう性質は人も持っているわけですが、それを無視して結末を求めるのは無理があります。現に私はどんなに脅迫されようと変われませんでした。かわりに自殺を考えたことなら幾度もあります。最初に触れた自殺者も恐らく栄養失調や労働需給の歪みをもたらす社会システムなど鑑みるべき要素があったはずですが、そうした要素に本人含めて誰も目を向けること無く、強い脅迫的な状況に晒され続けたのではないかと思います。 それが当然だという意識も本人や周囲にあったかもしれません。何も自明なことなんてないと思いますが。

「俺がお前を生かしてやっている」は最低だと書いたことがあったと思います。何によって私達は生かされているのか、誰にも具体的に言葉では説明できないことです。何が正しいことだったのか、それは大抵は評価軸によって変わります。例えば3年寝太郎は勤労という視点では不良だったかもしれませんが、観察と機転によって自身だけでなく村の人々をも助けました。もし寝太郎を怠け者で迷惑でしか無いと村が判断して排除してしまったら、村は最悪全滅していたでしょう。今の私ならこの話に物事を測る物差しの扱いの難しさと、自然への観察の重要さを思います。人が勝手に考えた評価軸で正しかろうと間違っていようと、自然はあるがままに結果を返してくるものかと思います。だからこそ認識の不完全さを自覚して、自然に適っているのかの検証を繰り返すことが必要なのではないでしょうか。何か物差しを利用することは避けられないかもしれませんが、自分を一つの物差しに押し込めてしまうこともないと思います。物差しで人を叩くのは色んな意味で間違っています。

そういえば昔色んなことを考えていた人は実は結構な暇人だったらしいというのを見たことがありますが、なんとなくわかる気がします。効率化だの生産性だのというのは現場であくせく追い立てられる人々ではなくて、自然の物事を観察したり表現したり試したりすることに興味があって、「働かざる者食うべからず」みたいな脅迫的な事情から縁遠い、自由に発想する余裕のある人が実現してきたものかと思います。それは誰もが持っている潜在的な素養かとも思いますが、大抵会社などでは鞭を振って追い立てながら失敗をするな、アイデアも出せなんて無理を要求します。大半の人の関心も仕事の出来とかではなくて鞭を逃れたりずるをすることばかりです。当たり前の反応ですね。そんな環境でいいアイデアなんて出るわけ無いと思います。カネになるかどうかしか問われない仕事なんて頭がおかしくなって当然です。それでアイデアがポコっと出てくれば必死に囲い込んだり排除したりして、時に発案者すら蹴落とすという悲劇も現に起きているわけです。何かが根本から間違っていると思わないものでしょうか。私はここにもカネ不足の弊害があると思っています。そもそもカネが社会を十分流れていたらそんな必死になって囲い込む意味はないのではないでしょうか。貴重だから必死に抱え込む、カネが足りないからカネを溜め込み、カネの成る木(と本人たちは思っている)も独占しようとするのではないでしょうか。モノが足りないならともかく、カネ(権利)が足りないだけです。一体デフレのどこがいいんでしょう。



自殺という文面をみかけて思うままに書いてみただけなのでまとまりがなくなった気もしますが、とりあえずここまでにします。

2019年11月17日日曜日

対症療法と根本治療



対症療法と根本治療だったら、根本治療のほうがいいでしょう。対症療法的な行動と、根本治療的な行動なら、やはり根本治療的な行動のほうがいいはずです。要らぬ仕事を作るために解決できる問題を先延ばしにして対症療法で茶を濁すのは、何かおかしいことが起こっているはずです。医療に限らず様々市場において、消費者の立場から何かいびつさを感じ取る人もいらっしゃるのではないかと思います。

例えば向精神薬を用いた薬物療法は対症療法ですが、分子栄養学的な栄養療法は根本治療と言えます。薬の機序を考えてみますと、SSRIなどはたしかセロトニン伝達経路の一部を塞ぐ程度で、セロトニンの合成段階では無関係です。涸れ川に立派な堤防を築くだけなら大きな意味があるとは言えません。ところが身体を作り、神経伝達物質を十分に合成するための栄養指導はごく一部でしか行われていません。私も本で読んで実践しただけで、指導を受けたことはありません。製薬・医療業界が賃金や売上を得るために解決できる問題を無視しているのかどうかはわかりませんが、医者が上から目線で言う患者の根性だとかの問題ではないのは確かでしょう。治療に協力的であってほしいという気持ちは理解できるつもりですが。

そこでの社会復帰・参加の定義もまた、単なる現行システムへの適応になっているのは気にかかるところです。つまり賃金を獲得するのが社会参加だという定義です。そのシステムが不健康の原因の一つでもあるのに。最もそんな定義はないかもしれませんが、体験した身としてそこに向かっていたと思いました。私の担当医は修行とかおっしゃっていましたが、ついに自己判断で治療を中断して現在に至るまで、黙って社会システムに適応しろという以外の解釈はできませんでした。というか当たり前だろみたいな感じで言うのでやっぱり真意はわかりませんでした。ちなみにその後の経過としては分子栄養学の本を読んで自分で始めた栄養療法のほうが効果がありました。



経済でいえば例えば残業規制や最低賃金の設定は対症療法的ですが、ベーシックインカムやデフレ解消は根本治療的と考えられます。なぜ残業規制が敷かれるのかとか、最低賃金が設定されるのかとか考えれば、それは残業が多すぎ、賃金が低すぎて生活や健康に支障をきたす人が多いからでしょう。言い換えれば労働に余裕のある生活ができるだけの値段がつかないということになります。ところが時間や値段を規制したところで市場システムや企業の営利という本質は変わらず、無人化に伴って労働需要は縮小せざるをえません。人手に対して消化業務量が多いので勘違いしている人がいらっしゃるかもしれませんが、根本的には人が足りないのではなくておカネが足りないだけです。根本的に人が足りないなら賃金は上がります。おカネがないから消化体制を整えられられず人も雇えない、おカネがないから業務を過多気味に抱え込むという考え方です。これは恐らく合っていると思っています。生み出される商品価値のうち人的な労働力が寄与する割合は限定的だということを考える必要があります。労働に値段がつかないという流れは機械を打ち壊そうがストをしようが止めようがありません。

ちなみに嫌ならやめる、対等に交渉できるようになるというのは、ベーシックインカムのような拒否権に該当する仕組みがあって初めて出来ます。学び、努力せよ(そうすることで己の商品価値を高めよ)と大量に本や言説が溢れていますが、全体的な状況としては悪化していると言えます。個人の努力や能力不足のせいで片付けていいものとは思えません。というか真っ向から反対します。そもそも買うためのおカネがないのが問題なのに、何が商品価値や生産性なのでしょうか。一体何を以てそれらを測るつもりですか?

それに実際は、大半の生産者が商品価値や生産性の最大化なんて追求していないはずです。大声で言うことではないですが、カネを得るための商品のごまかしなんて呆れるほど横行しています。粗雑な仕事をして過去のブランドを食いつぶすだけの状況にある企業もたくさんあります。そもそもおカネが足りなさすぎてそれを得るために消化しなければならない仕事量が多すぎます。同じことが戦前にもあったのに世界の国々(特に日本国)は何をしているのでしょうか。

労働者、下請け、品質、消費者…カネのために犠牲になっているものがあまりに多すぎます。そんな状況でもデフレの何が問題なのかという人がいるのが私は信じられません。値段なんて気にせずに誰もが満足するいい仕事をしたいとかの欲はないのでしょうか。やめたければやめればいいし、したいことがあるならそれをすべきであって、大事なのはその権利が公共で可能な限り保証されることです。それともそうした仕組みが不足していなければいけない理由でもありますか?

技術はますます進歩して無人工場まで登場しているのに、社会に富を請求する権利はますますなくなって不安になるばかりです。その状態を誰彼はこうだから(例えば努力不足だ能力不足だ)ととっくに陳腐化した物差しで評価してシステムに嵌め込んでみたところで、それに一理あったとしてもやはり限定的で対症療法的なものの見方でしかありません。労働力に満足に値段がつくことはないと状況は示しているわけですが、少なくない人が不満を持ちながらもそれは自分とは関係ないことだと思っているようです。これ、とても不思議な文に見えますね。努力不足だから、商品価値不足だから貧苦に陥るという理屈を現状を鑑みておかしいと思わない人が多いのでしょうか。それとも自分は努力家で商品価値があるからなんだかんだ心配ないと思っているのでしょうか。それとも苦を苦と思っていないのでしょうか。いずれにしろ不満を感じている時点で問題ないとか無関係だと思うのは無理があるのではないでしょうか。いつまで対症療法的な行動にこだわるのでしょうか。



2019年9月24日火曜日

空気




多くの人にとって「周囲が」「空気が」と自己決定権を自分以外の何者かに委ねることは当たり前のようです。私はこの場合の空気というのは、社会システムによって形成される生活スタイルへの執着ではないかと思います。「働かざる者食うべからず」な現行社会システムでは実際にそのような生活スタイルが形成されるのですが、それが妥当ではないことはもはや語り尽くされているにも関わらず、まるで現状がそうなっていることが正しさの証明であるかのように「ほら、周囲が、空気が」と理由として持ち出されることが、話していると非常に多いです。実際何の説明にもなっていないのですが、そこには罰を恐れる気持ちがあるのかもしれません。

考えてみればわかりますが、Aという主張の妥当性を説明するのに「AだからAは正しい」というのはおかしい話です。「働かざる者食うべからずだから、働かざる者食うべからずは正しいんだ」「今の社会はそうなっているから正しいんだ」「周囲がそうしているから正しいんだ」と、こう書けば何の説明にもなっていないと書いたことも理解できるのではないかと思います。ただの道徳が物理的法則か何かに格上げされているのもおかしいことだと思います。「現行社会システムに逆らったら生きられないからそのとおりに振る舞うんだ」と言ったほうが認識としては進歩しているのではないでしょうか。そう自覚して現行社会システムを肯定できるかは知りませんが、神の御業だの物理法則だのを振りかざすよりはよっぽど救いがあるのではないでしょうか。

かの特攻も反対根拠の明白さにも関わらず、結局は空気で決定されたと言います。空気に逆らえば、もっといえば社会システムのあり方そのものに疑問を呈せば痛い目にあうのだという思い込みではないのでしょうか。人は自分の認識が不適切であるということを受け入れ難いもので、個人を社会システムのあり方に無理やりねじ込むことに熱心な人がいるのはそのせいかもしれません。ほら社会システムの(俺のボスの)言うことを聞かないから痛い目に遭っただろと。しかし、賞罰と物理的自動的な作用を同じだと言っていることには無自覚です。自分の世界観を正しいと証明するために他者の世界観を侵略するのが傲慢ではないなら何だというのでしょうか。

私の家でも常に誰よりも優先して父が中心にいて恐れられていました。「働かざる者食うべからず」な社会システムは、「収入があれば威張っていい」という道徳ですらない珍妙な解釈をもたらす結果になるようです。「誰のおかげで生きていられるのか(俺のおかげでお前が生きている)」は現行社会システムがもたらす最低にして最悪の言葉の一つだと思います。先人の技術遺産や自然への感謝も畏敬もない、ただの傲慢と妄想です。そのような人々にとって、不和を解消しようという訴えは、ただの妄想として処理されるべきもののようです。賃金がなければ生きられないという社会システムの設計思想は、賃金を得るためなら他の様々な問題を無視しても良いという解釈をそこで生きる人々の一部にもたらすようです。あらかじめゴールが決められた迷路を道なりに進むことが、彼らの目には自由な人生に映るのでしょう。


2019年9月23日月曜日

私の値段は




私は大抵の問題が社会システム、デフレに繋がっているのではないかと考えています。現状が購買力不足か供給力不足かという認識で、結論の方向性はあらかじめ決まるとも思います。供給力過剰なのに供給力不足が原因として、個人の商品価値に問題の解決を求めるのは正直なところ正気の沙汰ではないと思っています。

元から過剰な供給力をさらに過剰にし、それを不足し続けるおカネで評価するという無謀で救われると多くの人が真面目に語るのが私はとても怖いです。しかも親切や世話のつもりで私の値段について嬉々として話をしだすのだから勘弁してほしいです。

そういう自分で自分を親切だと思っている人ほど私に対して君のことは言わないとわからないなどと言いますが、私は会話が苦手なりに言うべきことは必ず言っていますし、賛同している本を紹介したり、こうして考えをまとめたブログを書いていたりしているので、元から話を聴く気がないのでしょう。そもそも私の問題と自分の問題を混同している人すらいます。なぜか私が私の値段を高めることが自分の救いになると思っている人が多数います。もう意味がわかりません。

2019年8月7日水曜日

おカネに振り回されること




例えば子供が描いて見せてくれた絵を「そんなことより」と矮小化すること、おカネの問題を生産者や消費者に転嫁すること、おカネのシステムの欠陥を「全て稼ぐ能力・努力(商品価値=賃金)の問題だ」と片付けること。そういったことの何が「現実」「常識」なのか私は甚だ疑問です。

購買力問題とその解決を話せば今度は「周りが」と言い出す。なぜ恐れる必要があるのでしょうか。なぜ周囲を恐れなければならない状況に疑問を持たないのでしょうか。なぜその恐れを他者にも強要するのでしょうか。

そんな恐怖と妄執に曇った「将来」や「心配」などより、素直な気持ちで描いて見せてくれた絵のほうがよほど素晴らしいに決まっています。少なくとも無関係な尺度を持ち出して「そんなことより」と頭ごなしに評価する粗暴な振る舞いよりは平和的かつ建設的な試みでしょう。絵を描く喜びだとか願いだとかを伝えようとしたものだったはずが、「お前は卑小だ」「お前のしたことは『そんなこと』だ」というメッセージを受け取って、次にどんな行動を選ぶかくらい想像できますよね。

私の両親なんかはまさに好きなことを話せば「そんなことより」と毎度のように言っていましたが、今では私の好物を間違えて平然としています。ボケよりは無関心と見下しの結果なのだと思います。私が「将来」「心配」とやらに適合するかどうかが彼らにとっての私という人間の大部分でしたから。私は両親にかける言葉がもはやありません。何千何万と試行錯誤して訴えたにも関わらず、彼らが全て否定して不和を受け入れてしまったからです。

毎回のように言っていますが、足りないのは供給力じゃなくて購買力です。口を開けば供給力のことばかり言う人が多いです。デフレや技術的失業、無条件給付の意味を理解出来ないのでしょうか。だから絵を描いて見せてくれた子供に言うのでしょうか、「そんなことより」お前の商品価値を高めないと苦労するぞと。

問題は供給力じゃなくて購買力にあります。デフレがあり技術的失業がある中、「商品価値(賃金)が(購買力の)全て」という発想が現実に合ってないと言いたいわけです。現実に合ってないからおカネに振り回されるだけ振り回されて何の解決も見ないのです。机上の空論のために慰み者として消費され、萎縮し、歪められる感性がもったないないと思います。



2019年4月4日木曜日

令和




  • 令和
  • 「令」は国民次第
  • 和を以て令を為し、令を以て和を為す



 新元号「令和」について思ったことです。


令和


 新元号は「令和」ということだそうですね。発案や選考過程で込められた想いに関してはよくわかりませんが、「字面と音がきれい」というのが第一印象です。



「令」は国民次第


 「令」は法律と命令を想起させるので嫌だという意見もあるみたいでした。しかし良い法を国民が望んではいけないということはありませんし、作ってもいいと私は思います。おカネが欲しい、美味しいものが食べたい、暇が欲しい、遊びたい、遠くへ行きたい、そのために合理的な理由で「令」を制定するのはいいことだと思います。



和を以て令を為し、令を以て和を為す


 「ベーシックインカム」などの新しい「令」が必要です。技術的失業と過労、貧困で倒れるまで既存システムの都合に合わせるのはエネルギーや可能性、多様性などの損失です。受益者(この場合は国民消費者)がBIの必要性を理解して要求する必要があります。和を以てこのような令を為し、令を以てよりよい和を為すのが理想でしょうか。無用な緊縮、通貨利権などをもたらす悪法も駆逐したいものです。ちなみに古文はよくわかりませんので、おかしければご容赦ください。



2019年2月23日土曜日

平成31年度予算の編成等に関する建議への意見



平成の財政を振り返り、次の新たな時代に向かう意見募集について

 4月5日まで財務省でこのようなものをやっているそうです。みなさんもご意見あれば投書してみては如何でしょうか。私も自分なりに考えて送ってみました。以下その本文ですが参考になれば幸いです。


本文

 購買力発生に伴う債務負担を無くすべきである
 
 財政収支を問題として提起するならば、購買力発生に伴って生じる債務負担を軽減するか消滅させる必要がある。そうしなければ誰かの持つ請求権が誰かの債務と利子負担で成り立つ現行の制度設計上、いくら税率を上げようと数字や生活が程よく収まることはありえない。預金準備率100%や国債の日銀引受が必要である。請求のための券の話に過ぎない財政(通貨)が財(生産)より遥かに大事という本末転倒に国民経済は振り回され、萎縮している。不足を購買力ではなく生産性や自己責任、努力と言ったものに求める風潮まであるが、こうした方針が現状の問題を解決することは決して無く、最終的に負担は貧困や健康問題といった形で消費者が背負っている。それでもあくまで財政問題を提起しこれを消費増税によって解決しようとするならば、まず債務による通貨発生に伴って生まれる利子は何なのか、これについて国民が納得する議論を公開し通貨制度の是非を問うべきである。


 購買力不足の解決のため、通貨発行と消費者への直接給付を検討すべきである
 
 税収を増大させるには購買力を増大させる必要がある。購買力増大とは通貨流通の増大であるから、税率を上げなくとも税収を上げることが可能である。購買力を増大させるには請求のための券(通貨)を発行して消費者に分配するだけで事足りる。現状、購買力さえ十分にあれば分配可能な財の供給力に比して、消費者がそれらを請求するための現実の購買力は圧倒的に不足している。このことは物価が上昇していないことや、生産現場や生活を締め付けるものが売上や人件費、収入といった通貨流通の不足であること等から判断できる。購買力不足とそれによる社会問題を最も確実、包括的、そしてシンプルに解決出来る方策は、通貨の発行を含んだ調達と消費者への十分な直接給付である。消費増税は購買力を低下させるので悪手である。また生産の効率化は購買力不足を解決するものではない上、民間が当然にやってきていることなので政府側であえて目標として掲げる意味はない。生産性向上と購買力増大は直接の関係がなく、これに執着することは政府が自らの首を自らの手で絞めることになる。そして最終的にその負担は国民消費者が負うことになるから、先述したような方法を以て購買力の整備を優先する方針に転換すべきである。


本文おわり



 建議書自体はざっと目を通してほぼどうでもいい内容に見えたので本文では無視しています。いつになったら前提認識がおかしいことや、しがらみありきで考えることの無理を認めるのでしょうか。購買力不足を無視して効率化やら生産性向上やら、つまり供給強化に関する提言が出てくるのがおかしいのですが、これが吐気と頭痛がしそうなほど繰り返されています。購買力の現状を無視・あるいは絶対視することでしか出てこない意見です。購買力が無くなっても業務効率化で解決できますか?生産性を上げるとなんで若者に魅力的な産業になるんですか?人件費が減って雇われにとってはおいしくないのでは?

 生産性って私が考える以上に便利で曖昧な言葉として使われていると思いました(何か以前もこういう言葉があったような気が…)。聞こえのいい言葉を誰かが使うと他の誰かもそれに倣って(意味ははっきりとは知らないが、他の人も同じだし利権に背くものではない限り違和感があっても誰も突っ込まない)苦痛な時間を凌ぐだけの学級会なんかを思い出します。この批判は無人工場の生産物を買うのは誰?という質問に代えてもいいかもしれません。そも、あえて言うまでもなく企業は効率化を行うものでは?デフレ脱却はどこいきました?間違った制度設計や決定を正当化するために努力不足、生産性不足と貶されハードルを上げ続けられる企業や消費者。

 誰しも言われなくも生きてますし満足するよう勝手に適応しますが、社会から伝わるメッセージはお前の人生は駄目だ不足だ、生活を維持できるほどの商品価値がないのなら死を以て貢献せよというようなものです。少なくとも私は親や新聞、テレビ、教師などを通して小さい頃からずっとそのような雰囲気を感じて緊張してきました。無条件の請求権と財の分配を認め、少しずつどこかの誰かから喜びを分けてもらって、少しだけどこかの誰かに分けるつもりで何かするというのでいいと私は思います。心配しなくても人には役に立つことを喜ぶ機能が備わっています。孤独を癒せるのは生活のための仕事に追い立てられる状況に没頭することではなく、何の脅迫的事情にも囚われない状態で心から役に立つと思えることをした時だけです。

 テレビ新聞の言うことを真に受けて団らんを壊し、子供を追い立て緊張・萎縮させる家庭。質的栄養失調の中、神経をすり減らしながら頑張っていずれ絶望する子供達。しがらみありきで体面のためにだけ会議をする為政者。ただただ妄執と狂気です。何をするにも自分の商品価値を真っ先に問わなければならない、しかもそれを評価するおカネがない、使えるおカネは自分の商品価値に依存している、効率化は容赦なく進む、利権とマスコミに騙されさらなる負担を背負う。抜け出さなければこの国は破滅するまで螺旋を描いて堕ちていきます。




2019年1月11日金曜日

HOPELESS


  • 「ULTRASEVEN X」の社会問題
  • 「HOPELESS」のあらすじ
  • HOPELESSな社会システム
  • 現実のHOPELESS


「ULTRASEVEN X」の社会問題


 今回は「ULTRASEVEN X」という円谷プロダクションの特撮作品で描写された社会問題について考えます。ちょっとネタバレがあるので本作品を未視聴で気になっているという方はお読みにならないほうがいいと思います。創作と現実の線引きははっきりしているつもりですが、それらを並べることが気になるという方には、こういう見方をしている奴もいるんだなと思ってもらえれば幸いです。



「HOPELESS」のあらすじ


 本シリーズの「HOPELESS」という話では、現実でいうワーキングプアのようなHOPELESS(ホープレス)と呼ばれる人々が登場します。彼らはおカネをたくさん稼げる「仕事」として、商売宇宙人と契約して怪しい装置に生体エネルギーのようなものを提供するのですが、それは行き過ぎると廃人化や絶命に至るものでした。そのことを知った主人公属する特務部隊は、この装置を宇宙人もろとも排除します。一件落着かと思いきや、解放されたHOPELESSの人々が隊員達に対して口にしたのは、意外にも稼ぎがなくなったことへの恨み言でした。眼の前で人が死んだとは思えないほどあっけらかんと、そして稼ぎが無くなったことへの残念さを隠そうともせず彼らは帰路につくのでした。


HOPELESSな社会システム


 この危険な契約の当事者の言い分は、強制はしていないし自由意思だということのようです。ただもう少し視野を広げて見てみると、システム的にそう選択せざるを得ないという強制力は働いているのではないかと推察します。「ULTRASEVEN X」の社会問題の原因が何かはっきりとはわかりませんが、おカネを目的にしているあたり生産技術や資源ではなく購買力不足が問題なのでしょうし、技術的失業の影響を受けているのかなと思います。

 収入が賃金限定のシステムは労働力にしろ命にしろ売った代金だけで生活することになるので、労働を拒否する自由は保障されていないということでもあります。ですからシステムを変えない限りは技術的失業などで購買力不足が深刻化して、それによって生活や労働環境が悪化してもそれを甘んじて受け入れることしか出来ないと考えられます。そのうちに嫌とか苦しいと思う心的機能も抑圧によって麻痺していき、ついにはHOPELESS(絶望的な、という意味だそうです)に至るのかもしれないと思いました。


現実のHOPELESS


 例えば産業革命期には失業と貧民窟が急拡大したと言われています。金本位制(債務通貨の一形態)や緊縮方面の影響もあるでしょうが、概ね技術的失業が原因と思います。この頃ナイチンゲールが向かったクリミアの野戦病院の衛生環境は非常に劣悪だったそうです。購買力不足でおカネが回らず、従って物資も行き届かなかったのではないかと思います。本国では失業、戦争でも地獄という状況でHOPELESSな心情に陥っていたであろう兵士にとって、院内環境を改善したナイチンゲールが天使に見えてもおかしくはないと思います。

 ちなみにナイチンゲールについては色んな見方が出来ますがここでは掘り下げません。彼女は貴族の出身で、この時代では珍しく個人で扱える少なくない資産や大臣などとの人脈があったらしいということだけ指摘しておきます。ここで言いたいのは、購買力不足によっておカネのために命が大量消費されるような状況になるということです。私は債務通貨停止とベーシックインカムに賛成していますが、おカネを発行して配るのは、おカネに支配されないための方法と言うことも出来ると思います。それはこの例のような極端な状況の解決に限らず、今も続く生活のための労働から脱却することに対して有効と考えます。現在のシステムを容認するということは、ここで挙げた例のような状況を容認するということでもあるのではないかと私は思います。

2019年1月8日火曜日

これまでのまとめ



  • おカネは情報システム
  • 足りないのは購買力か、商品か
  • 通貨制度を変える必要性



おカネは情報システム


 おカネは請求権の権利情報システムと私は考えます。コインや紙幣、台帳、電子信号も権利情報を実現し管理する手段の一つに過ぎないと考えられます。おカネは循環しながら、その流れと逆方向に商品を移動させることで分配を実現します。おカネが回らなければ商品も回りませんし、商品供給が間に合わなければおカネをそれ以上回しても意味はありません。とりあえず、おカネと商品供給の2つを合わせて経済システムと考えればいいのではないかと思っています。


足りないのは購買力か、商品か


 貧困や不況といった問題の要因は、現状に関しては供給力不足ではなく購買力不足と考えられます。現状を供給力不足とした場合、貴重なはずの商品や労働力が買い叩かれ、容易に使い潰されるのは矛盾していると思います。こうしたことが起こるのは、購買力不足によって厳しい費用削減を迫られる状況だからではないかと考えます。ですから基本的な方針は購買力の補填であり、これを供給力の強化より優先することになります。

 供給力を強化しても、購買力が不十分であれば分配は購買力に制限されます。産業革命期では生産技術が飛躍的に発達したにもかかわらず、人件費が急縮小したために貧民窟を大量発生させたと考えられます。また金融恐慌では担保資産価値の急落によって民間銀行への債務(今の制度では通貨とイコール)が大量に消えることが、やはり倒産や失業・貧困の主要因になると考えられます。

 需給バランスをあまり意識したことが無い人でも、現状で「貧困等の問題は(自分の商品価値を高めるよう)努力しなかった自己責任」と言うことに対してその通りだと思うなら、逆説的に供給力不足という見方を採用していることになるかと思います。なぜなら購買力ではなく供給能力(特に労働力)の不足に貧困や不況の原因を求めているからです。現状を購買力不足と見れば「おカネを発行して配ろう」とか「通貨制度を見直して変えよう」といった結論になるかと思います。



通貨制度を変える必要性


 おカネの流れをどう変えるかを図で確認します。購買力異常を解決するために必要なことを2枚の図で表しました。下のようになっているものを...


現況


こうすればいい(下の2枚目の図)と考えられます。



変更



 1枚目から2枚目への変更内容は、債務による発行の全面撤廃とベーシックインカムによる購買力の補填です。こうすればいいと考える理由を説明します。

通貨発行による利子と金融ショックのリスクを排除する


 債務による発行の撤廃ですが、これによりおカネの発行と同時に発生する利子と、金融ショックのリスクが排除されると考えられます。今の制度ではおカネは民間銀行への借金として存在しますが、利子分のおカネは発生しません。期日が来る度に通貨量を維持したまま利子分を払うには、利子分を新たに借り入れる必要があります。これは複利であり、元本は雪だるま式に増えます。全ての通貨を返済・消滅させても債務は残りますが、その分は担保を回収すると考えられます。

 また全てのおカネが債務に裏付けられる(担保の資産価値次第になる)ことで担保資産への投機が容易になり、暴落すれば債務返済により通貨量も減少します。このような世界経済を揺るがす金融恐慌は、システムが変わらなければこれからも起こると考えられます。1枚目の左上のセクションがおカネを借金として発行させるシステムですが、2枚目の通り無くても問題はないと考えられます。元々の通貨発行権とは別のものだからです。

購買力不足を直接給付で補う


 消費者への直接給付は技術的失業(技術進歩に伴う人件費の縮小)による購買力低下に対応します。技術的失業の流れは不可逆で不可避なのは歴史を見れば瞭然ですから、技術を否定するのではなく、供給可能な商品をいかに市場を通して分配するかということを考えます。そのためには単純に請求権を発行するなどして、購買力と商品供給力のバランスを保つように消費者に直接供給すればいいと考えられます。図では公的支出から個人消費まで、直通の通貨供給ルートである「ベーシックインカム」を設置します。



動画紹介

 
 最後にベーシックインカムを説明した動画を紹介します。